知恵之輪士のSKiを読む!


 【第九話】“新世紀エヴァンゲリオン”を読む!

 「このタイトル↑は何だね、知恵之輪士君。キミはこのミニコミが、SKiのミニコミだということを忘れてないかね」。
 「いぇ、これは某雑誌で井出百合子(もと:望月菜々)が『今、エヴァにハマってます』と言ったから書いた原稿で、SKiと密接な関係があり、SKiを考える上で重要なテーマなのであります…」。

 さて、ゼーレへの連絡も済んだことだし、そろそろ本題に入ろうか(含み笑)。

内田絵美  私は、最初エヴァのことは余り興味がなかったので、兄貴がビデオに録画して見ているのを何回か隣で眺めていただけだった。特に後半は、兄が「アスカが壊れていく姿は見たくない」と言い、録画したっきり見ていなかったようだ。
 井出百合子が見ているとのことなので、改めて初めから見直してみたが、あの後半の、暗く・重苦しく・陰惨なストーリー展開が面白いんじゃないかと、私は思った(含み笑)。

 この〈新世紀エヴァンゲリオン〉というアニメは、キリスト教神秘主義であるカッバラーの象徴を巧みにちりばめた作品であるが、その使い方はなかなかうまい。例を挙げれば、映画版のエンディングで初号機がロンギヌスの槍に貫かれるシーンがあるが、このロンギヌスの槍というのはキリストのはりつけの刑に使われた槍のことで、普通に考えればキリストを殺した悪い槍のようにも思えるが、キリスト教ではキリストと父なる神とが一体となるための「聖なる槍」とされている。
 カッバラー思想の目的が、知恵の実をかじり楽園を追放される前の人間、原人アダム・カドモへの回帰であるが、本編の中核を成す【人類補完計画】の完成のために、このロンギヌスの聖槍が使われている。
 エヴァを知らない人のために、【人類補完計画】がどんなものかを説明すると、「一人一人の人間はみんな欠点を持っているが、それを一つの生命にまとめてしまうことで、欠点のない完全な生命にしてしまおう」というものである。
 しかし、それは個人の消失、“私”と呼んでいる自分が無くなってしまうことを意味する。この物語の主人公・碇(いかり)シンジは映画版エヴァの中で、この他人と自分との境目のない世界を見て、友達も家族もいない世界は余りよい世界ではないと感じる。
 これによく似た話を、カッバラーでもキリスト教でもない仏教が生まれる前の、インドの奥義書に見てみよう。

 「世界の始めには、ただ人間の形をした自我のみが存在した。自我は辺りを見回したが、自我以外には何も存在しなかったので、彼が最初に言ったのは『これは自分だ』であった」。

 自我は急に恐ろしさを感じた。そのために、今でも人は一人になると恐怖を感じるのである。しかし彼は、「自分以外に誰もいないのに、自分は何を恐れているのか?」と考えた。その途端、彼の恐怖は消えてなくなった。実際、恐怖というものは他者に対して感じるものなのに、彼は何を恐れる必要があったというのか。
 また、彼は「人は一人でいても少しも楽しめない」ことに気付いた。そこで、自分の身体を二つに分けて、夫と妻を造った。だから、あるバラモン僧は「自分は片割れにすぎない」と言うのである。これがために自分の心にできた隙間は、相手の婦人がいなければ満たされないのである。{ブリハド・アラーニァカ・ウパニシャドより 一部要約}
 聖書の場合、まず神が土を丸めてアダムを造った。そして、「人が一人でいるのは良くないことだ」として動物たちを造ったが、その中にはアダムにふさわしいパートナーはいなかったので、神はアダムの肋骨を一本抜き取ると、それから女を造った。アダムは『これは自分にふさわしい相手だ』と言い、彼女はイヴ(生命)と名付けられた。

 実によく似た話だ。キリスト教は、常に楽園の追放という問題を背負っている。エヴァにおいても同じテーマがストーリーの主軸となっているが、ではインドの場合はどうなのだろうか?
 内田絵美ちゃんを例に説明しましょう。彼女はとてもかわいいですね。でも、「内田絵美はかわいい」というのは、余り正しい表現ではありません。
 別の例を挙げると、犬好きの人は犬を見て「かわいい」と思いますが、犬が嫌いな人ならば逆に「怖い」と感じます。
 「犬は四本足である」という場合は、誰がどう見ても四本足ですが、かわいいとか怖いというのは、なぜこうも違って見えるのでしょうか?
 それは、かわいいとか怖いとか、美しいかそうでないかなどは、“自分の内側に存在しているから”に他なりません。だから、「内田絵美はかわいい」ではなく、「私は内田絵美をかわいいと思う」と言わなければならないわけです。
 昔のインドでよく使われた表現で、「心臓の内側に広がる空間は、この世界に広がる空間と同じ広さがある」というのがあります。心臓の中の空間、つまり心の広さは世界と同じ広さを持っている。美しさや醜さ、喜びや悲しみはみんなこの心臓の内側にあり、神や悪魔、天国や地獄もその中にある。だから、インドのお坊さんは(キリスト教の)神父のように天に向かって祈らずに、静かに瞑想するわけです。
 キリスト教とは全く異なるインドの哲学は、新世紀エヴァンゲリオンの物語が問いかける問題に何かを提示してくるかもしれない。しかし、その物語の問うものは楽園からの追放だけではない。それはストーリーの中で〔ATフィールド〕と呼ばれている、“あなた”と“わたし”を区別する境界。インドは、この問題について多くを語ってはくれない。インドでは、今日我々が抱いているような“個人”という考えはそんなに発達しなかった。このような個人の考えは、皆さんご存じのようにイギリスやフランスといった西ヨーロッパを中心に発達したものです。我々はその答えを探しに、今度はヨーロッパへ向かわなければならない…。

本当にSKiに関係するテーマを書いてる[群馬県/知恵之輪士]

[写真:夢野 雫]

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【次回予告】
 「自分とは何か?」。エヴァが投げかける問いへの答えを、ヨーロッパ個人主義への先駆けとなったアーサー王と円卓の 騎士たちの冒険の物語に求める。
 「次回、知恵之輪士の SKiを読む!【第拾話】“アモール”の時代。ご期待ください!」。



97年9月号目次