last update:98/08/18
 知恵之輪士の、SKiを読む。


 【第12回】 永遠

    川の流れは絶えずして もとの水に非ず
        されど 流れ亡き川 川に非ず
    川 流れてこそ川なれば
        水 流れるも 川 流されず

 これこそが、取りも直さず“永遠”に他なりません。
 これは、以前別のコーナーに載せたことのある詩なのですが、私がSKiのコンサートに通い出して間もないころ、夢の中で大学教授をしているという初老の紳士から聞いたものです。彼は、私の夢に何度も登場する人物なのですが、私がこれまで発表してきた哲学的な洞察はすべて彼から受け継いだものです。
 口語訳すれば、「川の流れは途絶えることもなく流れ続けているので、今流れている水はさっきとは違う水になっている。もしも、川(の水)が流れていないとしたら、それは池や沼や水たまりであり、川とは呼べない。『流れている』ということが川の最も本質的な部分だとすれば、水は常に変化し続けているとしても、川そのものの本質は何も変化していない」ということです。
 さらに、師いわく「川を目の前にしても、みんな流れ水しか見ていない。立つ波の一つ一つ、跳ねる水しぶきの一つ一つは片時も同じ姿を保っていないが、もしも水の流れそのものである川は動かないと見る人は、確かに永遠と無限に触れている」。
 夢の中の大学教授が私の内面的な師匠とすると、もう一人の哲学の導き手である神話学者 ジョーゼフ・キャンベルは外側の教師であった。

 キャンベルも、永遠について実に面白いことを語ってくれた。彼が言うには、「永遠と常在は全くの別物」なんだそうだ。常在とは、それがいつでも同じ場所にあるということで、永遠とはいつかどこかにあるのではなく、過去,現在,未来という時間の流れを完全に超越している。永遠には始めも終わりもないのだから、永遠は失われたものではなくこれからやって来るものでもない。つまり、永遠とは「今、この瞬間の中にある。又は、今以外の全ての時間の中に存在している」のである。
 キャンベルがそうした永遠性に触れる方法として勧めているのが「芸術」と「宗教」の二つで、私にそれを開示してくれた芸術がSKiであり、中でも松田ゆかり=写真=こそが私に永遠を運んでくる存在だった。
松田ゆかり
 そんなゆかりさんも卒業となり、私がファンになった当時から残っているのは、高橋プロデューサーや中野社長らだけになってしまった(苦笑)。SKiファンにとって、メンバーの卒業は避けて通れない現実であるが、私はそれが悲しいことだとは思わないし、むしろ肯定的に受けとめている。
 私はキリスト教式の結婚式に2回ほど列席したことがあるが、新郎新婦は指輪の交換の前に、ある“誓い”をしなければならない。
汝(なんじ)は、健やかなるときも病めるときも、この者を愛することを誓いますか?
 相手もまた、自分に対して同じことを尋ねられる。
 でもここで疑問なのは、なぜ病んでいるときも相手のことを愛さなければいけないのかという点です。健康なときに相手を愛するのはともかく、病人でいるときにまで愛さなければならないのは、健康とか病気だとかというのは単に健康状態の変化にすぎないからです。それは川の水と同じで、絶えず変化し続けていて、ただ波が高いか低いか程度の違いにしかなりません。
 この結婚の誓いで、神の前で誓わなくてはいけないのは、結婚する相手を愛することではなくて、「愛そのものに対して誠実であること」なのです(…とすれば、結婚相手に対しても誠実でなければいけないのですが)。
 しかし、人間という生きものは、いつまでもあるものは当たり前のなかに埋没してしまうように思っているらしくて、我々が生活している空間は空気で満たされていて、それを絶えず呼吸して生きているはずなのに、普段そのことを意識していません。「呼吸をしている」と実感するのは、水泳やマラソンをしている時のような、息苦しい時ぐらいでしょう。
 だからこそ、病めるときにも愛さなければいけない。いゃ、病んでいること自体を愛さなければいけないのです。要するに、本当に愛さなければいけないのは相手の長所ではなく「欠点」なのです。
 前回取り上げた、望月菜々の『恋は雪のよう』がテーマにしているのは正にそれで、二人が守ろうとしているのは現象としての良さ悪さではなくて、無時間的な相手に対する思いやりなのです。

    魔法が消えて行くの 誰にも止められない
    でもあなたは 私との愛を守ろうとする
        (中略)
    やさしく私を抱き寄せ あなたは終わりを見つける
    だから私も決めたの 笑顔でサヨナラ

 この二人にとって、別れは終わりではない。それは相手に対しての「変わらない思いやり」の結果なのだから…。
 そして私も、松田ゆかりの卒業という事態を、決して悲観してはいない。

 仏教には「六道輪廻」の教えがある。
 それは、我々の魂は6つの世界で次々に生まれ変わっていることを表したもので、一つは飢えた亡者の世界、次は動物の世界、この後地獄・戦いの世界・人間の世界、そして天国と渡り歩いてゆくのです。
 天国は喜びに満ちた世界ですが、次にどの世界に行かされるか分からない不安定な世界です。ブッダは、この輪廻の世界を抜け出して輪の中心にいます。中心は周りが変化する中にあって、唯一変化しません。これがニルヴァーナ{※1涅槃(ねはん)}です。
 釈迦(しゃか)は「人生は苦なり」と言っています。時間の領域にあるものは、いつか必ず終わりを迎える。その苦しみを乗り越えるために釈迦が示したのがニルヴァーナ、変化の中にあっても変化しない静寂の世界です。
 そしてそれは、どこか遠くにあるものではなく、今ここにある。永遠とは、過去と現在と未来とを貫いて、それらを一つに繋ぎ留めている。これを見るためには「流れ水」ではなく、「川」を見なければならない。
 もしも、うれしいときと悲しいときの両方に共通している“何か”を見付けられたなら、その時は苦しみを喜びと同じように受け入れることができるでしょう。

[文:群馬県/知恵之輪士]

[カメラ:論説委員■ゆめのしずく]

※1【涅槃(ねはん)】
 〔仏教用語〕釈迦が全ての煩悩(ぼんのう)をなくし、高い悟りの境地に達して死んだこと。


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