last update:1999/01/07
◇好評連載◇
知恵之輪士のSKiを読む!


 【第15回】不思議発見

 「天ぷらの“ぷら”ってなあに?」
 「なんで信号は赤青黄なの?」
 「スフィンクスって、なんでもっとカワイクしなかったの?」
 その独特な感性で、SKiの不思議少女と呼ばれる寄合歩。
 ルルちゃん・ララちゃんの二人(二匹?)のエイリアンを飼い、宇宙からのメッセージを聞くことができると言う彼女。その特異なキャラクターに衝撃を受けた者も多かろう。
 しかし、私にはその“不思議少女”というのが、今一つピンとこない。彼女のどの辺が“不思議少女”なのであろうか?
 不思議なことを口走ると言う意味だろうか。それとも、何でも不思議がるということだろうか。はたまた、文字通り彼女の存在自体が不思議だというのだろうか。その辺が私には謎である。

 この間、姉妹誌『六連星倶楽部』98/10号に、水上温泉ツアーで行なった座談会の模様が載っていたのだが、その中での寄合歩の話題の時に「印象が無い…」の一言で終わらせているのには、自分でも驚いた。夜中に座談会をやったので、やたら眠かったのは覚えているが、自分でそんなことを言っていたとは意外だった。
“印象が無い”というのは、私にとって寄合歩という少女は、ごく普通の少女だったからで、私には彼女の発言はごく自然なものに聞こえたからだ。
 ここで誤解してほしくないのは、彼女の発するはなはだ難解な疑問の数々は、回答を求めて質問をしているというわけではないということです。寄合歩の発する「何故?」は、事象に対する感嘆の声に他ならない。
 誰でも初めて海を見たときに「なんて広いのだろう」と、その大きさに心打たれたことや、山の頂上から眺めた風景の雄大さに圧倒された経験はあるだろう。そうした雄大なものに触れたときに、心から自然に発せられる驚きの声が「なぜ?」なのです。
 「なぜ、空は青いのだろう」。「なぜ、月はあんなに丸いのだろうか?」。こうした「なぜ?」は、その回答へ目を向けているのではなく、“空の青さ”や“月の丸さ”そのものへの率直な驚きの声なのである。その最大の物は、シェークスピア作・[ロミオとジュリエット]の中に出てくる有名なセリフ「おおロミオ。あなたはどうしてロミオなの?」であろう。
 この質問に「それは親がそう言う名前を付けたから」などという回答をするのは、ひどくナンセンスなものだ。ジュリエットが問うているのは名の由来などではなく、ロミオという男性そのものなのだから。

 昔、お客さんが三期生・宮田直美に「どうしてそんなにカワイイのですか?」と質問したことがある。
 もしこれが“回答を求めての質問”と捉えたのならば、「目がパッチリしている」だとか「髪がきれい」だとか色々と思いつくであろう。しかし、こうした“美人の条件”を厳密に定義しようとすればするほど、つまらなくなっていく。
 “八等身が一番美しい”とか、“顔全体に対して目の大きさはどのぐらいが理想的”だとか、そうした回答は、私と宮田直美という関係を解消して、自分の外側のルールに置き換えてしまう。この図形に対して脳はこういう反応を示すという、無機質なメカニズムに。
 しかしこの質問が、宮田直美のカワイさに対する感嘆だったのならば、私と宮田直美は同じ世界の中で接点を持つことになる。そしてそれは、見る者にみずみずしい感性を与え、見ている者を物語の登場人物へと変える。
 詩人のウイリアム・ブレイクは、「魂の座は内面と外面の交わる所にある」と詠んでいる。
 外の世界にある存在があなたの目や耳を伝わって心の琴線に触れたときに沸き起こるさまざまな感情。
 うれしいとか悲しいとか、頭にくるとか面白いとか、そんな“内側の自分”と“外側の世界”が交わるところに魂の存在する場所がある。
 そこはあらゆる芸術の故郷であり、そこから寄合歩の「何故?」もやって来るのである。

 我々は、寄合歩よりほんの少しだけ早く生まれたおかげで、いくらか多くの知識を持っている。そうした我々知識人にとって、彼女が抱く疑問は、ひどく陳腐なものに感じられるかもしれない。我々には取るに足らないことを彼女は不思議がるが、彼女のようになんでも不思議がる人間は、実は科学者に多い。
 私は、「カエルの子は、ちゃんとカエルになるんですよ」と、遺伝子を研究している科学者が、真剣な顔で言っているのをテレビで見たことがある。
 「産卵から一定の時間が過ぎると、みんな一勢に細胞分裂が始まって、ちゃんと心臓が出来るときとか、目が出来るときとかも全部決まっているんです。
 そして、みんなオタマジャクシになってカエルになる。間違ってトカゲになったりしないんですよ。それがすべて遺伝子に書き込まれているのかと思うと、生命ってのはすごいものだなあとつくづく思う」。
 このように、実際に自分で実験や観察を行なう科学者と言うのは、けっこう素直に驚くものです。

 我々は、そうした研究の結果だけを座学で勉強する。そうした科学が提示してくれるのは客観的な知識であり、そこには、ブレイクの詩のような“内面と外面の交わる魂の座”は存在しない。
 もちろん、こうした科学が我々にもたらす恩恵は誰もが知っている。
 しかしそうした客観的な見方は、反面、“主体としての私と、世界の結びつき”を断ち切ってしまいかねない。
 そうした死んだ知識は世界のあらゆるものを“〜だけにすぎない”という冷めた言葉で無意味なものに変えてしまい、終局的には“主体としての私”が分からなくなる。
 それに比べれば、「なぜ信号は赤青黄なの?」と言う質問をするほうが、よほど自然で健康的と言える。
 むしろ人間としての幸せを望むなら、そんな素朴な疑問こそ大切にしなければならない。内側の自分が、外側の世界と出会い、驚きが生まれる所。そこにこそ、魂は存在するのだから。

世界不思議発見を保存する会・代表 [群馬県/知恵之輪士]



98年冬号目次

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