last update:1999/01/05

論説委員・まる井からの、最後のメッセージ 《制服向上委員会と私》


 私、まる井はこの原稿をもって、KS3の論説委員を卒業します…。

 何から書けばいいのだろうか?
 3年前、興味本位で見た初めてのコンサート。いわゆる「普通のコンサート」に比べれば質も量も全く違う、“異次元”のような世界。そんな魅力に引き込まれ、いつしか会場へと足を運ぶようになった。共に歌い、共に踊り、一緒に写真を撮ったり、メンバーに認識されたり…。ある時、街でばったり出会ったこともあったよね。
 何もかもが制服向上委員会中心だった2年間と、ある決心をした後の1年間。そんな想いを振り返りながら、メンバーに贈る言葉と、私自身への最後の原稿としたいと思う。

 「私にとってのSKiとは、一体何だったんだろう?」と、ふと考える時がある。
 まだ何もかもが新鮮で、コンサートで楽しむことがごく当たり前だと感じていたころ、好きとか嫌いとか、趣味とか義務とかではなく、間違いなく「生活の一部」だった。
 コンサートへ行くためにお仕事頑張って、イベントに参加するために残業で稼いで…。制服向上委員会を中心とした生活サイクルが、何の迷いもなく当然のように行われていた。一推しのメンバーが卒業すればホンキで泣いていたし、長期休業ともなれば心から心配した。
 当時は川崎市に住んでいて、都合さえつけば現場へ向かっていた。その分、何かと身近に感じ、無我夢中で楽しんでいた。PTAコミティに言いたいことは一杯あったけど、それでも純粋に制服向上委員会が好きだった。

 ある時、私に環境の変化が訪れた。東京のコンピュータ・ソフト会社を辞め、実家(岡山県)へUターンすることになったのである。
 当然のことながら、現場とは物理的な距離が置かれることとなり、コンサートやイベントへの参加回数は目に見えて減っていった。今までとは違い、観に行きたいときに観に行けない。お金があっても時間がない、時間があるとお金がない。それでも何とか都合をつけ、関西方面や地方公演などには参加した。少々マンネリ化していた感も否定できないが、久しぶりに観るステージはまた新鮮なものを感じたりもした。
 しかし、距離と時間を置くことで、物事を冷静に見ることができるようになる。「ホントにこれで良いのか?」 いつしか、自分自身にそんな問いかけをするようになっていた。
 もちろん、答えが出るわけなどなかった。ステージはいつもどおりに楽しいし、歌って踊って十分に楽しめる内容だった。そう、いつもどおりの…。

 1997年2月。そんな中、今年も卒業式を迎えようとしていた。篠原智子や松本美雪といった、私がハマるきっかけとなった当時のメンバーたちが、この制服向上委員会を去ってゆくのだ。
 皆さんご存じのとおり、井上裕紀子ファンである私にとって、それは寂しくはなるものの、致命的ダメージを与えるほどではなかった。菊地彩子もいれば、橋本美香もいる。宮田直美だっている。まだまだ、制服向上委員会は楽しめると思っていた。
 そして、1ヶ月後。予算的にも厳しいはずなのに、懲りずに上京していた。「何かが起こる」と言われる、横浜のあの場所へ…。

 この時、私の中では“ある決断”が下されていた。「これで、制服向上委員会(のコンサートを観るの)は最後にしよう…」と。
 何が原因で、このような決心をしたのかは分からない。ただただ、そう思っていた。
 その日は雨が降っていて、桜木町駅から坂を上り、会場の横浜市教育会館に着いたのは、昼の部の公演中だった。時折聞こえるホールからの歓声に何度か振り返りながら、雨の中、傘を差して待つ。
 公演が終わり、客の入れ替えのため再び扉が開けられた。さっきとほとんど同じ顔ぶれがホールへと入っていく。知人とあいさつを交わしたり、グッズを買ったり、いつもと何一つ変わらないやりとりの中、夜の部の開演時刻を迎えた。「今日と明日で最後になる…」。完全燃焼とか“しでかし”とか、そういったことも考えずに…。

 やがてステージは終わり、帰途に就くことになるが、たまたま帰りの電車(東急東横線)が中野社長を含む数名のメンバーと同じになった。その時、私はKS3別冊の〈恋はゆっきぃのよう・創刊号〉を持っていた。まだ、一般に配布される前の初版である。
 残念ながらそこに井上裕紀子の姿はなく、それを本人へ手渡して頂けるよう、中野さんにお願いした。あの決断とは裏腹に…。

 結局、制服向上委員会はその後地方公演をすることもなく、私もあの横浜公演以来、まだステージ・イベントに参加していない。UNO-DX(ゲームソフト)発売記念のイベントで大阪に井上裕紀子が来たことがあったが、その日も仕事で行けなかった。
 最近はどうだか知らないが、SKiファンの中には「金がないなら借金してでも行く」とか、「仕事なら有給取ってでも行く」という人がいることを聞いていた。コンサートやイベントへ行けないことに対し、「愛がない」とか言われればそれまでかもしれない。
 でも、愛が無いわけではない。可能な範囲で応援することこそが、私なりの愛なのだ。
 実際に、SKiを1年離れた今でも井上裕紀子が好きだし、心のどこかで彼女を応援している自分がいる。井上裕紀子が活躍している話とかを聞くと、やっぱり顔がニヤけてしまう…。
 広末涼子や、安倍なつみ(モーニング娘。)・島袋寛子(SPEED)といった、いわゆる“アイドル”も好きだ。でもそれは、彼女らの人間性などとは全く関係なく、あくまで芸能界に存在する商品としての「好き」だ。井上裕紀子も、その例外ではない。
 分かっちゃいるけど、分かっちゃいない。越えられない壁…。制服向上委員会の井上裕紀子はもちろん好きだが、もしかしたら一人の女性:井上裕紀子までも好きになっていたのかもしれない。
 井上裕紀子の人間性といっても、ほとんど何も知らない。くだらない手紙にお返事くれた数回のやりとりと、〔電話でデート〕でくらいしかコミュニケートしていない。それでも、裕紀子ちゃんのその人柄に惚れ込んでいた。
 ある時新宿で、学校から事務所へ向かう途中だと思うが、制服姿の井上裕紀子を見掛けたことがあった。お仕事ではない、女子高生:井上裕紀子を。
 今ではもう無理だろうが、当時はお互いに認識していたので、声を掛けようかとも思ったのだが、やっぱり何もできなかった。たとえファンとはいえ、プライベートの時は関わってほしくないだろうし、何より「素の井上裕紀子」と接するのが怖かったからなのかもしれない。プライベートを犯したくないという気持ちと、「もし、素の姿はイメージと違っていたら…」という不安からの逃避。ただの根性なしかもしれないが、これが私の井上裕紀子への想いなのだろう。
 ステージの上の人間と下の人間で、世界が違っても僅かなコミュニケーションで、現実では縁の無かった疑似恋愛を求めていたのかもしれない。それでも私は、井上裕紀子を好きだった。

 その後もメンバーは激しく入れ替わり、正直なところ、今では「誰が誰だか分からない」状況である。限界ラインは、松井陽子・中井祐子あたりまで。
 Uターン後再就職したので「本業多忙」もウソじゃないし、なかなか原稿を書いている時間が無いのは事実である。今回、論説委員の降板を申し出たのは、私的な状況もあるが、現場にも行かず、何よりも変わり果てたメンバーの記事を書けなくなったことが最大の理由である。「これが最後の制服向上委員会」と覚悟を決めた時から、いつかはこの日が訪れると思っていた。自分自身、せめて井上裕紀子の卒業までは頑張ろうと思っていたが、そろそろ限界と思い、降板させて頂くことにした。

 同時に、もしかしたらファンを辞めるかもしれない。かといって、嫌いになるわけでもない。制服向上委員会と関わったこの3年間は紛れもない事実だし、それを否定するつもりは全くない。井上裕紀子から頂いた十数通のお手紙と、滝本久美・菊地彩子から頂いた一通づつの手紙。唯一、同じ瞬間(とき)を過ごした証の〈アワサッテル〉。それから、まぶたを閉じればよみがえる「数々の想い出」…。どれも皆、大切にしたいと思う。

 最後になりましたが、現役メンバーの皆さん、あなたたちは輝いています。街には、肌を焼き原始化し、更には身体までをも売っている「コギャル」とかいう人種が生息していますが、同じ年代の女の子として、あなたたちは間違いなく輝いています。そして、「輝く瞬間(とき)」をモノにしてください。
 清く正しく美しくをモットーに頑張っている姿には、非常に好感が持てます。私は、その清潔感に魅かれたのかもしれません。いつまでも自然体で、そしてありのままの姿で、その姿勢を後世に残し、伝えていってください。
 数多くのコンサート、そしてイベント…。長いようでもあっという間に過ぎ去ったこの数年間、私の人生に花を添えてくれた[制服向上委員会]に、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。
 今後のご活躍を祈っています。
[論説委員/まる井]



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