Graduation '99 |
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《羽ばたけ!》
撮影/ブルーウェイブ
博子ちゃん。リーダーを二年もやったり大変だったとは思うけど、この約四年半の間どうもありがとう。そして、お疲れ様でした。
僕たちファンも笑ってもらいたくて、しょうもないことをしたりしたこともあったけど、お互い良い思い出になったと思います。
KS3誌上で、僕は博子ちゃんへ期待のあまりいろいろと書いてきてしまいました。ごめんね。
でも、それは“愛情の裏返し”と思って、許してください。
僕は博子ちゃんというと、真っ先に思い出すことがあります。
もちろん入会当初のこともちゃんと覚えてますが、それより入会から一年くらい立ったある日、友人と二人で事務所を見に行きました。出待ち・入り待ちが目的じゃなくて、新宿にはよく飲みに行くので(プリ天です(笑))、そのついでに寄ってしまうんですね。
その時、偶然博子ちゃんが、五階にある事務所へ行くためエレベーターの前に立っていたのです。
友人が先に気づいて声を掛けました。すると、少し怪しまれていましたが、なんとその場で少しだけ話をして、握手までしてくれたのです。
今だから言える話だし、その後はそういうことは一切していないのですが。当時から事務所の方針でそういうのはNGだったんですね。しかも、かなり徹底されていて。そんな中、博子ちゃんだけでした。そういうことに応じてくれたのは。
自分たちは確かにまずいことをしていたのですが、そんなことに応じてくれる博子ちゃんの気さくさ、人柄に驚き、非常に嬉しかったことを、今でも鮮明に記憶しています。
そのとき感じたのですが、やはり、アイドルにも人柄って大切なのかな?…、と。
外見ばかりで判断するのは良くない…、と。
その頃、博子ちゃんは、ほぼノーマークでした。でも、この時を機に博子ちゃんに対する見方が変わりました。とりあえず、ライブで気にするようになりましたから。それが95年あたりの話です。
96年に入り、まず三月に『四人一組』のリーダーになり、その時、あまりのかわいさに“くうーっ!”となり(って、一推しは別にいたのですが)、「こりゃ、博子時代の到来か」と思いました。
その公演の帰り道でも、他のファンさんが「本田は良いよな」なんて言ってましたし。
さらに四月にはツアーがあったのですが、ほぼナビゲーター状態で、でも、無難にこなしていました。
こりゃ、もしかすると次期リーダーかな?と思っていたら、本当にそうなりましたね。
もっとも、ファンさんの皆さんも、同じように思ってらっしゃったようですが。
そして九月、正式にリーダーとなった訳ですが、どこかでも述べさせていただいたと思いますが、最初は良かったものの、徐々に博子ちゃん自身の輝きが失われつつあるように感じ、とても心配しました。
『私の幸せ』などを歌ってた頃に比べると、何か自分を押し殺しているようで…。
さらに翌97年6月公演では「援交グループ」とまで言われる事態にまでなってしまいました。
97年にはN.Y公演があり、三期生の主力メンバーともうまくやっているようで、表面上は良かったとも言えますが、あまり中身のなかった年のように思えました。
この年にリリースしたアルバムは良かったのですけど。
そして98年を迎え、出番が減り出しました。これもやめていく者の宿命。仕方のないことではありましょうが。
一番悲しかったのが、P会報でのコメントと、12月公演でのことでした。
P会報では、アルバム『黒い瞳』の全曲紹介のところで、「博子の最後のソロ曲です」と、コメントしていたことです。「お願いだから、そんなこと博子ちゃん言わないでよ!」と、思ったものです。
また、12月27日の夜公演のとき、『Season−涙の季節−』で瞳にいっぱい涙を浮かべ、必死にこらえて歌い切った博子ちゃんがそこにはいました。
でもその時、僕は胸がつまってしまい、何も声を掛けられませんでした。
心残りです。
しかし、博子ちゃんは、その公演でハッキリと「自分の道を歩んでいきます」と、力強く言っていました。
おそらく、何か博子ちゃんの中で、先に対して具体的に進む道が固まっていて、また、SKiではやることはやったので、気持ちに区切りがつけられ、スッキリしていたのだと思います。
そんな、いつも頑張っていた、そして、これからも頑張り続けるであろう博子ちゃんへ…。
孤独な羽根をさらして 君だけの羽ばたきを見せて
まばゆい時を踊り続けよう 力尽きるまでに…
T.M.Revolution 『THUNDERBIRD』君の瞳に涙は似合わない…。
[埼玉県/恵里子にTry!]
《博子ちゃん、ありがとう…》
「最後の私のソロ曲です。私に会いたくなったら聴いて下さいネ(ハート)」。
これは、P会報(Vol'30)の『黒い瞳』アルバム全曲紹介のうち、『18才』で博子ちゃんが書いたコメントの一部である。
このコメントを読んだとき、私の脳裏にあらゆる博子ちゃんの姿がよみがえってきた。
近くは大阪から、遠くは浜松、富山まで車を走らせて行った“IJRキャンペーン”。97年・98年と正月明け早々に上京し、写真を撮った“ごあいさつ”(今年は抽選に漏れたため撮れず)などなど、様々な思い出が…。
でも、私が一番印象に残っているのは、昨年12月20日の忘年会で、最後に歌われた『18才』である。正直言って、この時の博子ちゃんがものすごく輝いていた。
撮影/ホーカー・テンペスト
普段は冷静に見ている私も、この時ばかりは違った。
「もう、この姿を見られない。見られるとしても二月の卒業式だろう」。そう悟ったのか、目一杯声援を送った。
私のことをよく知っている人が見たら「いつもの○ちゃんじゃない」と思ったかも知れない。
いつかこの日が来ることは覚悟していた。しかし、出会いがあれば、必ず別れが来るのは十二分に承知の上であるが、悲しくないと言えば大嘘になってしまう。でも、私は笑顔で見送りたいと思います。
博子ちゃん、四年半も私たちSKiファンを楽しませてくれてありがとうございました。
今までのことを糧に、これからもがんばっていってくれたら、とても嬉しいです。
[京都府/○ちゃん]
《博子ちゃんの存在》
博子ちゃんの卒業は私にとって「1つの時代の終わり」を告げるものと言えるだろう。
ついにこの日が来てしまったんだな…という気持ちもある。
博子ちゃんは今のSKiカラーを作った子だと思う。彼女が「制服向上委員会」そのものだと思う。
博子ちゃんを見ればSKiがどういう雰囲気で、どういうカラーであるのかわかる…。そんな気がする存在だった。それはリーダーを2年間やった事がやはり大きかったのではなかったかと思う。吉成さんとともに、SKiを代表する子ではないかと思う。
だからベストメンバーを選択する機会があったとしたら、博子ちゃんは絶対はずせない存在だろう。
博子ちゃんはファン、それもオンリーの人がいっぱいいて、本来なら近寄りがたい存在だったと思う。
でも、そういう人とも話すようになり、それによって博子ちゃんも遠い存在ではなくなっていた。
お話が出来る雰囲気かどうかは、とっても重要な事なのだ。
撮影/ブルーウェイブ
博子ちゃんの周りには笑いがあった。みんな博子ちゃんをいろいろ試したり(笑)していたが、それはおそらく博子ちゃんが好きで、博子ちゃんとお話したいためなんだろうなと思って見ていた。
博子ちゃんも、答えられなくてすねてみたりしたけど、内心はうれしかったのではないかなと思う。
私は「一度だけ」博子ちゃんとお話したことを思い出す。初めてツアーに行った97年6月の事だ。
話した内容はたわいのないことだったと思うけど、博子ちゃんと話した事はとても楽しかった。時間がほんとに短く感じられたものだ。
博子ちゃんはひたむきな子であった。けっして器用とはいえないし、歌も踊りもうまいとはいえなかった。
でも何かをやる時に「絶対ものにしてやる」という気持ちは、他のメンバーの誰にも負けてなかったように思う。そしてそのひたむきな気持ちがみんなにつたわった時に、とても魅力的に感じるのだ。博子ちゃんってそういう子だったと思う。
博子ちゃんとの思い出は、なにしろたくさんありすぎるんだけど、最初に会ったのは95年夏の酒井美紀ちゃんのコンサート(日本青年館)の時のビラ配り。みーつーといっしょだったときのことだった。
それまでもコンサートで見てはいたけど、あまり印象に残っていなかったのだ。
あと96年夏の名古屋キャンペーンの最後でサインをもらった時。私はモデラーである事を証明するためにキットの説明書にサインをしてもらった。そこには、
「あきらめず、完成させましょう!!」
と、書いてもらった(笑)。それは今でもキットを製作している時の励みとして残っている。
そして、博子ちゃんがいなくなってもきっと…。
もっともSKiのイベント行ってたら、作る時間なんてほとんどどないんだけど(笑)。
これを書いている時点ではまだ「いなくなる」という実感はない。まだバースデーパーティー、お別れ会、そしてソロコンサートが残っている。まだ博子ちゃんに逢えるわけだから。
でも、それらが終わっていなくなったと実感した時にどんな気持ちになるかわからない。
おそらく複雑な気持ちで最後を迎える事だけは間違いないだろう。
博子ちゃん、本当にありがとう。
[東京都/ホーカー・テンペスト]
《ありがとう、愛しい女性(ひと)よ》
博子ちゃんに関すればたくさんの思い出がありますが、あたしの記憶が鮮明な部分を中心に、思い出を記してみたいと思います。
まず97年4月の《「恋人たちの歌」発売記念キャンペ-ンin大阪》でのこと。
『傷だらけの青春』を熱唱していた彼女を見守っていたのですが、視線をこちらへ送って来たのです。それは「しっかり、応援して!」という無言の嫉妬に思えたのです。そして握手会、あたしの上着にはボ-イスカウトに着けてもらった緑の羽根が付けられていたのだが、「その羽根、どうしましたか?」と聞いて来たので、「駅前で募金してきたのです」と答えると「優しいんですね」と褒めてくれたのです。
この一言が嬉しかった。
98年2月の《UNO.DX発売記念キャンペーン》では初めてサイン会に参加。
そこで「渋公来ますか?」と聞かれてしまい思わず「行けるかどうか、わからないです」と答えたと記憶している(苦笑)。
続いて98年6月の《みなかみになる日ツアー》1日目に行われた山手線ゲームである。
最後の問題が“博子ちゃんの知ってる単語”であった。数人のミスで疑問を持ってしまった。あたしは何を考えたか「Sunday(日曜日)」と答えた。
博子ちゃんの表情が複雑だったのは言うまでもなく、1日目の握手会が、正直言ったら怖かった(苦笑)。でも博子ちゃんはニコニコしながら握手してくれた。
2日目の撮影会では、あるファンさんから「ペコちゃん顔してだっちゅ〜の」してとお願いされてしまい、再び複雑な表情でポーズをしていた。あたしはナント1枚だけだが撮ってしまった(苦笑)。
博子ちゃんの視線がきついのは言うまでもなかった(泣)。が、しかし、最後の握手会では再びニコニコしながら、チャッピーとも握手してくれた。そんな博子ちゃんに感動してしまった。
98年8月《“○でない少女の×な生活”発売記念キャンペーンin富山》では、握手会の時に「新湊まつり、必ず見に来て下さい」と逆にお願いされてしまい「むろん、見に行きますよ」と言ったら、博子スマイルを見せてくれた。
そして、その夜《新湊まつり'98》は午後6時ぐらいから降りだした雨が本降りと化し、開催中止の危険もあったが、すぐに小降りとなり、ステ-ジは定刻通りに始まった。しかし『制服宣言』のイントロがかかると同時に再び雨が降り出してしまった。でも構わず熱唱する博子ちゃんに再び感動してしまった。
98年11月の《スポーツ大会》では我々の班に博子ちゃんが来てくれて一緒に戦った。成績は良くなかったけれど、色々な話を聞くことが出来たし食事も出来た。楽しかったが、お役には立てなかったのが残念でならなかった。
撮影/みのる
でも握手会にて「そんなことないですよ、嬉しかったです」。と慰めてくれたのには心から感謝です。
しかし、帰りの電車内で会ってしまって、ご迷惑をかけちゃいましたね(苦笑)。
謝罪しようと決意して臨んだ98年12月の《忘年会》だが、博子ちゃんに謝るタイミングがなかなか取れない。
握手会では『KS3』を手渡さなければならなかったので、2SHOTポラ撮影会にて謝ることにした。
腕を組んでもらい一緒に『KS3』を持ってもらった。写ったあと「先月の“しでかし”お許して下さい」と謝る。
でも「えっ、何の事ですか?」と逆に聞かれた(苦笑)。
答えようと思ったが、後ろが混雑しているので答えられず失敗(泣)。
最後に博子ちゃんは『18才』を熱唱してくれたが、となりにいた知人に、
「みのるさん、半泣き状態っすよ」とツッコまれた(苦笑)。
年が改まり迎えた《ボーリング大会》。ゲームでも同じチームになれなかったが、ティーパーティーでも同じではなかった(泣)。でも最後の握手会で「素敵な年賀状ありがとうございました」と言ってくれたので一安心。ところが、ちょっとしたハプニングで博子ちゃんと2回握手する羽目になってしまった。
お互いに苦笑いしながら再び握手を交わした。
そして1月末のP会報VOL.32にて博子ちゃんの卒業が発表された。98年9月の“生誕6年祭”でのリーダー交代の段階で、ある程度の覚悟は出来ていたが、正直言って悲しすぎるの一言だった。
届いた日は食事を取る気にもならなかった。一晩中部屋を真っ暗にして博子ちゃんとの思い出を振り返っている内に号泣してしまった。
博子ちゃん、SKiに入ってからの4年6か月、本当にお疲れ様。あなたとの沢山の思い出は絶対に忘れないよ。
そしてあなたに片思いしてしまった事をお許し下さい。3月26日(金)。あたしは元気に、そして笑顔で横浜へ向かいます。それが、博子ちゃんへの感謝の気持ちだと思うから、また、会いましょう。
Want.You!!
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撮影/ブルーウェイブ
《愛しき女性との電話でデ−ト》
これより紹介するのは、1997年8月9日(土曜日)夕方に行われた本田博子ちゃんとの《電話でデート》にて交わされた会話である。
本当は封印するのが一番だと思ったのですが、何かの記念になればと思い、公開に踏み切る事にしました。言っておきますが、自慢できるような内容はありませんので(苦笑)ご理解を願っておきます。
《開始, 午後6時32分》
博子 「 | もしもし‥‥‥‥」 |
みのる「 | もしもし、あっ、博子ちゃんですか?」 |
博子 「 | こんばんは、本田博子です!」 |
みのる「 | こんばんは、あたし柴野稔と申します。21才です。」 |
博子 「 | どうも(笑) いつも応援ありがとうございます。」 |
みのる「 | えっ、覚えているんですか?」 |
博子 「 | 覚えてますよ(笑) いつもハデな服を着てますよね?」 |
みのる「 | ウワ〜、完璧にばれてるやん(苦笑)」 |
博子 「 | アハハハハハ(笑)」 |
みのる「 | う〜ん(苦笑) じゃあ、質問していいですか?」 |
博子 「 | はい、どうぞっ!」 |
みのる「 | え〜と、今月下旬にニューヨークツアー(97年8月26〜31日)がありますけど、博子ちゃんは飛行機に乗るのが好きなんですか?(笑)」 |
博子 「 | 飛行機ですか?はじめ好きだったんですよぉ小学校2年生の頃は、でも和歌山(紀の国・年金まつり)とかに行った時に、耳にガァ〜ってくるじゃないですか!。滑走音と言うんですか? あれがダメで、もう1時間ぐらいで、気持ち悪くなっちゃうんですよぉ(苦笑)」 |
みのる「 | 大変じゃないですか!、だいたいですけど、ニュ−ヨ−クまで12〜3時間ぐらいかかりますよ」 |
博子 「 | でも、みんなと喋るので大丈夫です!。でも遠いですねぇ(笑)」 |
みのる「 | ハハハハハハ(笑)。では話題を変えまして、8月17日に《第5回・真夏の祭典》が開催されますが、博子ちゃん。自信のほどは??」 |
博子 「 | えっと、今から練習していますので、きっと素晴らしいコンサ−トになると思います」 |
みのる「 | そうですか、博子ちゃんの意見を信じて、必ず見に行きますので!」 |
博子 「 | ぜひ来てください!。いいコンサ−トになりますよぉ」 |
みのる「 | では、ここで一つ語らせてください」 |
博子 「 | いいですよ(笑)。なんですか?」 |
みのる「 | あたしは、博子ちゃんの事が好きなんです」 |
博子 「 | アハハハハハ(笑)。以前、告白しませんでしたかぁ?」 |
みのる「 | ギクッ(苦笑)、覚えているんですか?」 |
博子 「 | 山中湖《夏のプロローグツアー(6月28〜29日)》の時ですよね?」 |
みのる「 | ゲゲッ、しっかり覚えられているしぃ(笑)」 |
博子 「 | (笑) でも、女の子は誰でも人前で言われたら、照れちゃうし恥ずかしいんですよ!」 |
みのる「 | 貴重なご意見ありがとうございました(笑) 続いての質問ですが、卓球は得意なんですか?」 |
博子 「 | 得意って言うか、学校の授業でやってたぐらいなんですよ」 |
みのる「 | あ〜、授業でやってたぐらいなんだぁ(苦笑)」 |
博子 「 | 授業でいつも友達と勝負していましたので、少しは上達したのかなって思っています。あ、すいません。そろそろ時間なんですよ」 |
みのる「 | 3分間は早いですね(笑)。最後にすいません。眠くなってきたので(苦笑)、お休みメッセージをいただければ嬉しいんですが?」 |
博子 「 | お休みメッセージですか? そうですね『いい夢が見れますように』。こんなんでいいですか?」 |
みのる「 | ありがとうございました。これからも応援しますので頑張って下さい。来週の《真夏の祭典》にてお会いしましょう!おやすみなさい」 |
博子 「 | はいっ、ありがとうございました。おやすみなさい」 |
《終了, 午後6時37分》
一応、99%ノンフィクションで1%がフィクションです(笑)。
どの部分がフィクションなのかは皆さんの想像におまかせします(笑)。
なお、実際に交わした会話の一部分をカットさせてもらいましたので(苦笑)ご了承ください。
[副編集長/みのる]
☆本田博子さんへのメッセージ☆
約四年の長きに渡り、メンバーとしての活躍(うち二年間は、リーダーとして)、大変お疲れ様でした。
今、瞳を閉じると、いろいろな思い出がよみがえってきます。
二年前の8月25日、真夏の祭典と同じ日に名古屋でイベントがあったことや、IJRキャンペーンで各地を訪れたこと、コンサートではファンの皆さんを楽しませてくれたことなど、全部書き切れないくらいの、いろいろな出来事が印象に残っています。
それから博子ちゃんは電車が好きでしたね。コンサートのMCの中でもよく出てきた「『スーパービュー踊り子』に乗った」という話、今でも覚えていますよ。
私事ですが、もし私が博子ちゃんのファンになっていなければ、SKiのファンになっていなかったと思います。私をSKiファンにさせた博子ちゃんに感謝しています。
会えなくなるのはつらいですが、これからは自分自身が持っている夢に向かって頑張ってください。
[愛知県/杉浦嘉信]
本田さん、長い間大変お疲れ様でした。
本田さんの思い出は第一に、96年10月26日に、日比谷野外大音楽堂で行われた『マラソンコンサート』です。友人二人と会場に着いて、すぐに“アワサッテル”に参加しました。
大変苦い話ですが、私は松田ゆかりさんと写真撮影するつもりで、アワサッテルの列に並んだのですが、それは何と本田博子さんの撮影場所で、しかも[松-8]のチケットを本田さん担当のスタッフに渡してしまったことです。これは松田さんに対しても、本田さんにも申し訳なく、今でもお詫びしたいと考えております。
この日の会場は、すごい風が吹いていてとても寒く、「みんな大変だなー」と思いながら最後までコンサートを楽しみましたが、そんな中で『終章〜エピローグ〜』を一生懸命心を込めて歌い、忘れないで一人一人参加メンバー全員の名前を読み上げた博子ちゃんの姿が、目に焼き付いております。
博子ちゃんは「皆さん今日は五時間、長い間どうもありがとうございました」。と、ステージから大きな声であいさつされたね。私も「博子ちゃんお疲れ様」そして「ありがとう楽しかった」とエールを送りました。そして、その言葉を、今改めて送りたいと思います。
第二の思い出は、家から単車で15分位の場所にある、西友・大和郡山店五階のゲームセンターにあったプリクラの看板です。残念ながら今は片づけられたみたいですが、今でも内心「ああ、あの看板欲しいなあー」と思ったりします。
初めて見たとき、看板の右側に写っている菊地彩子さんはすぐわかったのですが、左側の本田さんは分からなくて、友人に「ねぇ、プリクラの看板の左側に写っている女の子誰?」と聞くと、「あれは本田博子さんだよ」という答えが返ってきました。
『マラソンコンサート』のビデオの中での博子さんと、プリクラの看板の博子さんでは、表情の目つきが違ったように見えたのです。
「きっと博子ちゃんは、洗練されて美しくなったのだ」と、今にして思います。
本田さん、楽しい思い出をどうもありがとうございました。
どうか、これからも「いつもいつまでもいつものように」「清く正しく美しく」をモットーにして、
各方面で活躍してください。
遠路から、いつまでも見守っています。
[奈良県/栗巣裕充]
SKi史上、最も偉大な功績を残した博子ちゃんへ、心から「ご苦労様」の言葉を贈りたいと思います。
そして、就職という新しい目標へ向かって進んでいく博子ちゃんに、心の声援で送り出してあげたいと思います。
短くもなかった博子ちゃんと過ごした歳月。その歳月の中で、博子ちゃんからもらった「夢の花束」を、「愛の花束」にかえて、博子ちゃんにお返ししたいと思います。
博子ちゃん、どうか、これからもお幸せに。
博子ちゃんからもらった夢を、ぼくは永遠に忘れないし、博子ちゃんも、ぼくたちが贈った愛を忘れないでください。
[SKIノベライズ委員会]
リーダーとして二期に渡って活動したこと、それがかえって自らの心を乱してしまう結果にならなかったかと、ちょっと心配。
グループにとっての良い結果は、個人の犠牲なしに成り立たないから。博子ちゃん自身は思っているかもしれないけど、時は否応なく流れてしまう。
今はゆっくり休んで、学校生活を楽しんでください。
そして、また新しい自分を見つけて、違った人生を歩むかもしれません。
4年半、どうもお疲れさまでした。
[論説委員/ゆめのしずく]
博子ちゃんでまず最初に思い出すのは、95年の3月に、雪積もる岐阜県大垣市で行なわれた、岐阜ラジオの公開録音のことである。
ゲストは、あの伝説のSKiユニット『ミッシェル』だった。
当時の私はSKiのことにそう詳しくなく、ステージ上に立った3人のメンバーのうち、諸岡なみ子と浅野みゆきは顔と名前が一致していたものの、もう一人の向かって右側の子だけは、顔と名前を、はっきりと認識していなかった。
ステージ上での存在感があった諸岡・浅野と比べると、地味というか、実に目立たないその子は
「いつまでSKiに残ってやっていけるんやろうか?」。という印象さえをも、私に与えたのである。
私をSKiの泥沼に引き込んだ友人が、横からそっと教えてくれた。
「あの子が、本田博子ちゃんだよ」。
そんな彼女はやがて、制服向上委員会の歴史の中で吉成圭子と並び、重要な位置を占めることとなる。
本田博子の最大の魅力は“包容力”このひと言につきると思う。
現在の『制服向上委員会』は、アイドル・グループとして存続するために、かなりの矛盾や無理を内包してここまでやってきた。一歩まちがえれば、グループの存在理由自体が崩壊してしまう…。本田博子は、そんなすべてのマイナス因子を包み込み、納めてしまう包容力を持っていた。
「まあ、いいじゃないですか。次、行きましょう」。瓢々とした口調で本田博子にそう言われると、
なんとなくみんな納得してしまった。
それが二年間、リーダーをやってこれた一番の理由であると私は考える。
いつもメンバーたちの矢面に立ち、プライドを持って『制服向上委員会』の看板を守ってきたのは、だれあろう、本田博子その人だった。
かつて、ファンさんに裏切られた言葉を投げかけられた時に流した涙が、何よりもそれを証明していた。
芸能界の中で、吹けば飛んでいってしまうような存在である『制服向上委員会』を誰よりも愛し、誰よりも一生懸命に支えてきた。
そんな博子ちゃんに、ファンさんの一人として、私は改めて感謝したいと思う。
博子ちゃんは、30年近くをのほほんと生きてきた私なんかよりも、ずっと“オトナ”ですから、いま改めて“これからの人生について”メッセージすることはありません。
きっとこの先の人生も“たおやかに”駆け抜けていくことでしょう。
ただひとこと、言い残すことがあるとすれば、
「本田博子が芸能界の中での路線を決定づけ、残していったライブ・アイドルグループ『制服向上委員会』の姿を、時々でもいいから、これからも気に掛けてほしい」。これだけです。
博子ちゃん、長い間本当にどうもありがとうございました。
[編集長代理/ブルーウェイブ]
N
A
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H
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O
K
O
MIYUKI
撮影/ブルーウェイブ
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