last update:1999/12/08
◇ 好評連載 ◇
【第17回】卒業
小学生の頃、授業で光合成の勉強をした。
植物は昼間日光を浴び、二酸化炭素を吸い、酸素とデンプンを作り出す。
夜はデンプンを分解しながら酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出す。
このように先生が説明したところ、クラスメートの一人が「それでは意味がないではないか」と言い出した。
それに対して先生は「植物はただ闇雲にデンプンを作ったり、分解したりを繰り返している訳ではない」と説明した。
生物は皆、成長し生命を維持するのにエネルギーを必要としている。生物はそのエネルギーをデンプンを分解して得ている。動物はそれを食べることによって補給するのに対して、植物は光合成によって自分で作り出しているのだ。
そしてこのことは「太陽のエネルギーを、光合成によって植物の成長に必要なエネルギーに変換している」と言い換えることが出来る。
円環の発想、サイクルの概念である。
一見すると無駄にデンプンを作っては壊しているだけにも見える呼吸と光合成。しかしそれをデンプンの精製・分解という個別のものとして捉えるのではなく、一つのサイクルとして捉えるならば、光合成の果たしている役割というものが見えてくる。
SKiでも毎年のようにメンバーは卒業し、また新しい新入生が入っては、次々とやめていく…。
推しメンバーの卒業は、SKiファンにとって避けて通れない悲しい現実であります。しかし、入会から卒業までを一つのサイクルとして捉えるなら、もっと別の見方ができるかもしれない。
今回はそんなSKiファンの試練ともいえる卒業について、前向きに考えてみたいと思います。
|
撮影/ホーカー・テンペスト
|
時間は円環であり、昼と夜が交互に繰り返すことで一日が過ぎ、春夏秋冬が移り変わり、一年が過ぎる。
これが時間をサイクルとして捉える考え方だが、それとは別に“時間は直線である”という考え方も出来る。
つまり“過去→現在→未来”と時は流れ、一度過ぎ去ってしまった時間は二度とは戻ってこないというものです。
北欧や西欧のハンターやバイキングたちは、そのような時間の考え方を持っていました。狩りで生活している狩猟民族は毎年同じ時期に収穫のある農耕民族とは違い、獲物を求めてさまよう、先の見えない生活だからです。
また、北欧神話に『ヴァルキリャー』という戦いの女神が登場する。
ドイツ語で『ワルキューレ』、英語で『バルキリー』と言えば知っているという方もいるかと思うが、この女神に気に入られれば、戦いでは決して負けないという『幸運の女神』だが、その者が一人前の戦士に成長すると、その者を殺してヴェルバラ宮殿につれて行ってしまうという死神でもあるのです。ノルディックの戦士にとっては、まさにそれが“理想の生き方”で、戦場で勇敢に戦って、英雄として死ぬのが最も素晴らしい生き方だと考えていました。
それはちょうどスポーツ選手が年を取って力の衰える前に引退してしまうのと同じで、力の絶頂のまま死を迎えるのが理想なのです。狩猟社会では、年を取って獲物の取れなくなったハンターは、足手まといでしかないのです。
こうした直線の時間律では、人生の前半部、成長し能力が向上している間が華で、中年以後のピークを過ぎてしまった残りの人生は蛇足でしかない。というのは、狩猟生活を生き抜くために必要なのは、その人間のハンターとしての個人的才能による部分が多いからです。
だから年を老いさらばえた後に人生の意味は存在しない。それに対して、農耕社会においては、そうした個人の技量はさして重要ではない。それよりも天候などの自然環境の影響力の方がはるかに大きいのだから。
農耕で人間の出来ることと言えば、田畑を耕し、種を蒔き、作物の育ちやすい環境を整えてやること。後は植物の成長を見守る以外に何もできない。
こうした自然のリズム、植物のリズムに合わせた生き方が円環の時間律を生み出す。春夏秋冬と季節は巡り、種は芽吹き、葉を付け、花が咲き、実を結び、再び種に戻る。この円環の時間律にデッドエンドは存在しない。
冬は春につながるサイクルの一部であり、植物が種を残し枯れてしまうのも、次の発芽のための通過点に過ぎない。
そうした円環の時間律に基づいた人生観では、年老いてしまうことは悲しいことではない。いや、むしろ力が増してゆく前半世は助走に過ぎず、後半世こそが本番といえるかも知れない。植物が光合成で蓄えたデンプンを、少しずつ消費して成長していくように、若者の頃に体験した様々な経験を、少しずつ消化して、人間として成熟してゆくのです。
二度と時間は戻らない直線の時間律からすれば、卒業は、メンバーと自分とを結んでいた世界の終焉に他ならない。
しかし、出会いと別れを一つのサイクルとして、初めてSKiのステージで出会ってから卒業するまでを振り返ってみて、もしSKiと共に過ごして、時間と金の無駄遣いでなかったと感じられるなら、卒業という現実も冷静に、前向きに受けとめることが出来るだろう。
私は今まで生まれてから様々な出会いと別れを繰り返してきた。しかし、もし自分がたった一人で生きてきたとしたら、今のこんな性格にはならなかっただろう。
かつて出会った仲間たちと過ごした時間があるから、今の自分がここにある。過去に過ごした時間が、現在の自分を形作っているとしたら、私は何を失ったというのだろうか。
今ある自分はかつて仲間と過ごした時間の結果だとすれば、今でも私は仲間たちと共にあるのだと思うのだが…。違うだろうか?
[群馬県/知恵之輪士]
[ KS3トップページ|99年秋号目次 ]
Copyright (c) 1999 Kochira Shinjuku 3-chome