last update:2000/11/01
◇ 連載コラム ◇
知恵之輪士のSKiを読む! 花

 【第20回】 芸術は経済の奴隷じゃない!

 今、ロシアの伝統芸能が存続の危機に瀕していると言う。
 ロシアは、旧ソビエトの時代から芸術活動は盛んに行われ、国家事業の一環として積極的に支援されてきた。特に冷戦時には、アメリカとのメンツの張り合いでソビエトの文化水準の高さをアピールするためにそれこそ湯水のごとく資金は投入されていた。
 しかし今冷戦は終結し、ソビエト連邦も解体された現在では、ロシアの経済建て直しのためそうしたオペラやバレエ、オーケストラといった芸術関係の予算は、軒並み削減されている。
 資本主義の市場競争では、国内の公演だけでは採算が合わず、やむなく西側諸国への出稼ぎ巡業に出なければ、団体を運営していけないというのが実情だそうだ。

 これらは日本から離れた遠い遠い雪の国の話だけれども、先に資本主義を取り入れている我々日本の芸術活動でも同じようなことは起きている。
 例えば落語などは面白いもので、同じ噺でも噺家によってずいぶん違った印象を受ける。物語自体の内容は同じでも、上手い噺家になると身振り手振り、抑揚の付け方や間の取り方、息づかいによって噺に表情をつけるのだが、若手にはそのちょっとしたことがマネ出来ない。私などはそうそう落語など聴く機会もないのだが、たまに聴いてみると、やはりそうした表現力は全体的に低下してきているというのが、率直な感想だ。
 ロシアのバレエやオペラ、日本の落語などがこのままでは消えてしまうとすると、寂しい。

 それよりもより切実な問題は、芸術が芸術としての表現力を失いつつあることだ。
落語の例で言えば、上手い噺家の場合、聴いているうちにその噺の中に引き込まれてしまう。逆に下手な落語家は、ただ面白いだけで、一発芸のコメディアンと変わらない。
 もちろんそれは他のジャンルでも同じで、音楽・演劇・文芸の別なく、本当に良い作品はそれ自体が独自の世界を持っている。我々は観ること、聴くことでその世界に触れ、それによってその世界を経験する。しかし出来の悪い芸術はそこまでいかない。その場限りの笑いで後には何も残らない。伝統が消えゆく中で、そうした世界を表現するだけの技術が失われていく事が、私の懸念しているより重要な問題である。
 それとは別の要因として、映像・音響技術の発達が、個人の表現技能を奪いつつある。
 現代の画像処理技術なら、人が空を飛ぶのも、巨大な恐竜を歩き回らせることも可能となっている。
 そうした技術によって様々な演出が可能となった分、例えば落語家が扇子を箸に見立てて、そばを旨そうに食べるといった細やかな芸が出来る人は少なくなった。派手な演出が可能になった分、映像にはならない人の心情のような繊細な部分の表現力は低下しつつある。
 そして何より、資本主義の構造そのものが、市場における需要と供給という形で成立している点に最大の問題がある。
 先んじて需要があり、企業がそれを供給するという図式は、消費者のニーズが市場をコントロールしてしまう。現に企業はマーケティングリサーチを繰り返し、消費者の求める新しい製品を次々に開発している。
 しかしそれは、子供が「食べたい」と言えば、いくらでもお菓子を与えてしまう母親のような存在になりかねない。確かにそれで子供は喜ぶかもしれないが、言うままにお菓子ばかり食べさせ、肉や野菜を食べさせない親はまともな親とは到底言えない。
 だが、今日のメディアの現状というのは、限りなく駄菓子しか与えないダメな親に近く、例えばゴールデンタイムの番組はどれも一発芸じみたバラエティ番組ばかりときている。そう言ったバラエティ番組は、我々が日常生活で見聞きしている以上のものは見せてくれない。
 しかし本当に良くできた芸術は、我々が日常見聞きしている物よりも遙かに洗練された世界を提示してくれる。もしくは、我々が日常見聞きしているものを、より洗練した形で提示してくれる。真に芸術家と呼べる芸術家達は、そうした我々よりも研ぎ澄まされた眼を持ち、それを絵画や音楽によって我々に伝える力を持っている。
 「創り手から我々へ」というメッセージがそこにはあるのだ。
 資本主義の市場原理は逆向きのベクトル、消費者の要求が創り手を動かす。結果として、今のメディアは大衆受けする安易なお笑いに走ってしまい、人の心を動かす力を持った作り手達は、肩身の狭い思いをしている。

 今の芸能界を観ていると、ジョーセフ・キャンベルがその著書の中で紹介している、アフリカの民話を思い出す。
 ある日少年が森でケガをした小鳥を拾った。少年は父に「小鳥にエサをやってくれ」と頼んだが、父親は「そんな無駄な食料はない」と言ってエサを与えるのを断ったために小鳥は死んでしまう。
 そして翌朝になり、父親は死んでしまうのである。

 男は小鳥を殺してしまった。小鳥を殺して歌を殺した。歌を殺して自分も死んだ。
 全く死んだ。完全に死んだ。二度と生き返れない

 今の日本はどうだろう。「エリート」と呼ばれるインテリ達が“心の救済”を求めてカルト教団にはまってしまったり、リストラされたサラリーマンが自分の生き甲斐を見失い途方に暮れ、17歳の少年達が破壊活動に身を任せて殺戮が繰り返されている。
 メディアがジャンク・フードのような作品しか提示しないから、心が栄養失調になっていっている。
 人生のお手本となり、心の支えになってくれる作品があまりにも不足している。
 その点が資本主義の悪であり、興業収益や売り上げ数だけで作品の善し悪しを決めてしまう体質は、小鳥にエサをやるのは無駄だと言ったあの民話の父親の価値観と同じ物だ。そして結末も同じ道をたどっているように私には見える。
 芸術は単なる娯楽ではない。人間の内側から沸き上がる魂の叫び声、熱き生命の鼓動なのだ。それを金銭的損得として捉えてしまうと、心を殺してしまうことになる。実際に精神世界を扱う宗教は芸術と密接な関係にあり、また心理療法の現場では、クライアントが病状の回復の段階で、芸術的創造力を発揮するケースが数多く報告されている。

 さて、ページも無くなってきたので今回はこの辺で終わりにしたいと思います。
 次回は『芸術と心の話』について、もう少し詳しくやろうかと思っています。

【群馬県/知恵之輪士】 



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