◇連載コラム◇ |
第22回 清く、正しく、美しく。
去年、西暦2000年に行われた20世紀最後のアメリカ大統領選挙。
結果は百数十票差という僅差のまま、投票システムの不備による集計ミスを手作業による再集計に持ち越されるという異例の事態。さらにその再集計を巡り、ブッシュ、ゴア、両陣営がそれぞれ裁判を起こすという泥沼状態。
最悪、年内には決着が着かず、年と世紀をまたぐのではないかと懸念されたのだが、結局はゴア候補が折れる形で、この前代未聞の珍事は幕を下ろした。
なぜゴア候補は降りたのか? 新聞等のメディアが伝えるところでは、両陣営の間に走った亀裂を修復するためといわれている。激しい選挙戦を勝ち抜き政権を手に入れたとしても、互いに協力しあって政治を行っていくことは難しいと判断した訳である。そこで潔く負けを認め、自らブッシュ氏を支援する意志を示すことで、内部分裂を回避しようというのが真意とされている。
さて、今回大統領選がここまで荒れたのは、両候補共に目玉となる大きな政策が無かったため票が割れたのだと言われている。まあ、要するに、どっちもそれほど人気があった訳ではなかったので、大差を付けることが出来なかったために接戦になったという見方である。
それに対して良く引き合いに出されるのが、ケネディ大統領である。
最近公開された、キューバ危機を題材にした『サーティーンズ・デイズ』や、暗殺という彼の悲劇的最後の謎に迫る『JFK』など幾つもの映画の題材になっていることが、ケネディの人気を裏付けている。
ケネディの人気の理由というのは、移民者の国であるアメリカ人は、彼のような名門の出身に憧れがあるのだとか。暗殺という最期と家族の相次ぐ死が、彼を悲劇のヒーローにしているのだとか、色々言われています。
それ以上に私が思うには、ケネディという大統領は単なる“政治家”ではなく、“指導者”であったからだと思うのです。トップとしてリーダーシップを発揮し、国民を導いてくれる“指導者”。それがアメリカの大統領に求められる資質であり、ケネディはそんな“指導者”であったのだと思う。
所は変わって、日本国内に目を向けて見ましょう。
私から皆さんに二つの質問があります。一つは「森総理は『政治家』ですか?」。
もう一つは「森総理は『指導者』ですか?」。さて、皆さんはどう答えるか?
私が思うに、ロシアの初代大統領・ゴルバチョフは『指導者』なんです。日本の初代総理の伊藤博文も『指導者』だったと思いますし、黒人解放運動のキング牧師、インド独立の父・ガンジー、足尾銅山の鉱毒問題と戦った田中正造なんかも『指導者』だったと思うのです。
ここであえて『指導者』と『政治家』をわざわざカッコを付けて抜き出しているのは、全ての『政治家』が『指導者』では無いということ。ここでいう『政治家』というのは“行政を行う人”。『指導者』というのは“理想を目指して人々を導く人”と定義します。
するとケネディ大統領は、良き『指導者』であり、また良き『政治家』であったと思います。
しかし今の日本には、良き『政治家』はいても、良き『指導者』はほとんどいないように思われます。
『政治家』と『指導者』の根本的な違いは、理念をもっているか、いないかの違いです。人の上に立って先導しようとすれば、目指すべき目標が無ければいけない。そうでなければ、人を導くことなんて出来やしない。
旧ソ連がキューバに軍事基地を建設し、あわや第三次世界大戦かと思われた状況を、交渉によって武力衝突を避けたケネディには、確かな理念があったと思います。
そして、ゴルバチョフ、キング牧師、ガンジー、田中正造。こうした人々もまた、揺るぎない信念を持った『指導者』だったと私は考えているのです。
しかし今の日本では、経済対策や福祉問題と言った、具体的な政策ばかりに目がいっているように思えます。理念を持ち、それにそって政策を進めていくのではなく、政治の実務的部分の方を優先している、文字通りの『政治家』だと思うのです。
その結果として、政党同士くっついたり離れたり、選挙の前と後では言っていることが違ったり、先の見えない政治になってしまっているように思えるのです。
そんな日本社会において、制服向上委員会というグループのスタンスは、かなり特殊なものと言えます。
宣誓!
私たち女のコは制服の精神に則り、
「清く正しく美しく」学生として女のコとして
制服を愛用することをここに誓います。
と、始まる制服宣言を挙げ、唱歌の再発見や、マスゲームの楽しさを伝える。といった具体的な活動方針を打ち出している。これだけまとまったコンセプトを言語的に打ち出しているアイドルも珍しい。「どこぞの政治団体にも見習って欲しいものだ」とSKiを初めて知った当時は思ったものだ。
今ではメンバーも代わり、ライブの内容も少しずつ変わって来ましたが、「清く正しく美しく」の制服の概念こそが、制服向上委員会の制服向上委員会たるゆえんなのです。
こうして見ると、SKiという団体は日本には珍しいタイプの団体だと分かる。日本の文化という物は、海外から入ってきた物を発展させてきた物がほとんどで「ものまね文化」などと言われるが、それは元々日本人が自然と共に暮らしてきた民族だからであって、例えば和食は素材の持ち味を楽しむ料理で、よく生のまま魚を刺身として食べたりするように。自然界にあるものを巧みに料理に取り入れ、自然と共に生きてきた民族だからなのです。
それは日本の美点でもありますが、その反面、悪い風習や制度を積極的に改善していこうとする意識が弱い、無意識的な民族であるとも言われています。
その中にあって、これだけ明確な言語的コンセプトを提示しているSKiは、むしろヨーロッパ的と言えるのかも知れません。
そんなSKiですが、この所“逆玉企画”のような「清く正しく美しく」ない活動もずいぶん増えたように思います。
別に客から金取って事務所の掃除させるのはいい。むしろ結構好きなのだが、説明文に見られるようなバッドテイストは、明らかに「清く正しく美しく」の精神から外れてしまっている。
他のいくつかの事務所の対応にも言えるが、制服向上委員会が「清く正しく美しく」の制服の精神を失ってしまったら、それはもはや制服向上委員会ではないのではなかろうか。SKiは今、「清く正しく美しく」の基本方針を貫いて欲しいと思う。基本方針のコロコロ変わる、どこぞの政治家のようにはならないで欲しい。
とにもかくにも「清く正しく美しく」の理念を失ったとき、制服向上委員会は死ぬ。
そうなってしまったときには、制服向上委員会の名はふさわしくないので、他の名前でやってほしいと思うのです。
SKiは今、「清く正しく美しく」の基本理念に立ち返るべきだと、私は考えるのです。
【群馬県/知恵之輪士】
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