last update:2000/01/21
◇ 編集部のある街からのコラム ◇
That's Dane 〜山野・BWの使えないお話〜
アイドル・グループ「制服向上委員会」をプロデュースする芸能プロダクション「PTAコミティ」並びに、同好の士である「ファンさん」達をこのような形で批判するのは、本当に心苦しい事であるし、また、本意ではないのだが、これは誰かが書かなければならないことだと信じ、あえて書くことにする。
☆キツネとブドウ
P会報「Vol'36」に、最新アルバム「音楽は経済のドレイじゃない!」の曲紹介が掲載されている。
そこには、宇多田ヒカルは猿真似だの、ドラゴン・アッシュは3流コピーだのと、例によってヒット・アーティストの批判が連発されている。
私はこういう発言を見るたびに、イソップ寓話の「キツネとブドウ」の話を連想してしまい、とてもいやな気分になるのだ。
腹を空かせた一匹のキツネが、棚から実っているブドウを見つけて、飛びついて取ろうとする。しかしキツネは高いところにあるブドウを取ることが出来ない。あきらめたキツネは「あんなブドウ、どうせ食べたって酸っぱくてまずいやい」と、捨て台詞を残して立ち去っていく、という、あの話である。
確かに日本の歌謡界は、未だ海外の音楽シーンから多大な影響を受けていることは事実だ。
まだ日本に入ってきていない洋楽ナンバーから、いかにして日本人好みのメロディとフレーズをいただいいて楽曲を作るかというのが、日本の一部の職業作曲家のお仕事となっているのは(無論、すべての人たちがそうではない。念のため)、歴然たる事実であろう。
しかし、自分たちのやっていることに対して本当に自信と誇りがあるのならば、他人がどうこうしようが関係ないではないかと思う。
猿真似ウタダがアルバムをン百万枚売ろうが、グロテスクなGLEYが20万人野外コンサートを成功させようが、「自分達には関係ない」と、涼しい顔をしているのが本当ではないか。
結局これらのギョーカイ批判によって、逆に自分たちのやっていることに対して、自信と信念がないことが露呈されてしまい、失笑を買っているのである。
そういえば「芸能界いちぬけた」などと、ぶちあげたこともあった。
本当にそう思うのならば、CMやドラマのオーディションをメンバーに受けさせたり、アルバムやコンサートのPRのために、新聞社や出版社を回るのを一切やめてから、こういうことを言って欲しいと思う。
んなこと、出来ないでしょ?
とにかくこの手の発言は、本当にみっともないので、今すぐにやめて欲しいのだ。
はっきり言って、グループや事務所が失笑を買うのは勝手だが、SKiを支持し、応援している私たちファンさんまで恥をかくのはかなわない。
雄弁は銀。沈黙は金というではないか。
自ら作り出す作品だけの力によって、私たちへ、そしてにモノの分からない人とやらへ、自らのポリシーを訴えていって欲しいものだ。
(麦)
☆賢い“だめなひと”と、馬鹿な“アイドルファン”
この春、ゴンゾ・ジャーナリズムとやらを唱う月刊誌「GON!」誌で、「制服向上委員会」について小林久子が「チェキッ娘」のオーディションを受けたときのことを中心とした記事か掲載されたのである。
内容的には私たちファンさん同士が、コンサートが終わったあと「天狗」や「白木屋」でしゃべり合うレベルの内容を、思いっきり茶化して作ったというモノである。
かなり詳細に調べて書いてあることと、記事内容から、ほぼ間違いなく春の「ベトナムツアー」に参加したか、あるいは、その人間と極めて親しい人物かが、記事を執筆したライターに情報面で、何らかの形で協力したものと推測される。
この中傷といっていい内容の記事に協力したファンさんは、一体何を思ってこのような行動に出たのであろうか。
私はこれまでに、アイドルファンという共通項で結ばれた、色々な人たちと出会ってきた。
世間一般では、結婚して子供の一人ぐらいはいるような年齢にしてアイドルを追っかけているのだ。
皆、程度の違いさえあれ、一癖も二癖もあるような連中ばかりである。
しかし、自分がお金と時間と情熱を注いで追いかけているアイドルとそのファンたちを、自らの手で貶めるようなマネをする自虐的な輩は、一人もいなかった。
当然だろう。それは自分で自分のやっていることを、全否定しているのと同じなのだから。
率直に言って、私はこの輩の思考と行動を全く理解できない。
一つ考えるとするならば「オレはコミティのやり方に、いつまでもへいこらしているワケじゃないぞ。あそこにいる連中より、オレは賢いんだぜ。「GON!」の記事にこっそりと協力して恥をかかせてやった。へへっ、ザマーミロ」。ってところだろうか。
この記事を薄いファン(なんだかんだ言っても、まだまだいるのですよ)や、メンバーたちが目にした瞬間、どういう気持ちにさせられるか、どれほどショックを受けることになるかを少しでも想像出来るまともな人間ならば、普通はこんなことは出来ないであろう。
私は、この輩の無神経さ(図太さかもしれない)を、ある意味ではうらやましく思う。
と、同時に、とても哀しく思う。
おそらくこんな事を他のアイドル・シーンでやったならば、おそらく二度とコンサート会場やイベント会場に顔を出すことが出来なくなるであろう。
それが良いことかどうかは別として、のうのうと会場に現れるが最後、皆に囲まれ、あらん限りの罵声を浴びせられるのが普通なのである。
SKiを知らない私のアイドルファンの知り合いにこの件について話をすると、皆「信じられない」「SKiの一番の問題は、このような奴の存在だよ」と返してきた。
ところがだ。なんてことであろうか。
「記事内容はきちんと現状が書いてあったし良かったと思う。そんなに怒ることではない」。
このような意見が、制服向上委員会の“濃いファンさん”に散見されたのである。
確かにかつての「投稿写真」誌でのバッシング記事あたりと比較すると、内容的に「手加減して」はいる。
内容だって、大きく間違ったことは書いてはいない。
しかし、こいつはそんな問題ではないのだ。
このことによって、制服向上委員会の置かれている事情を知らない、あらゆる人たちが目を通す商業誌で、自分たちが応援しているグループを茶化され、周り回ってSKiを応援している者たち全てが、皆からバカにされてしまうということ。
しかも、このような行動をとったのがおそらく、いわゆる“ファンさん”の中でイニシアチブをとることの出来る人物であり、対外的に「SKiファン全ての考え方を代表するとみなされる人物」であったということ。これが問題なのである。
率直に言って、そんなことも分からないのであろうかと思う。
それとも、「この年齢になって“十代の女の子”を追っかけてると言う時点で、世間様からバカにされている。だからそんなことは、もはやどうでもいいわい」とでも、考えているのであろうか。
「この年になっても可愛い女の子が大好き」だけど「一般社会から、外れていると思われたくない」。
その相反する感情を心の中でバランスさせるために「自分たちの好きなアイドル(制服向上委員会)を、壊れたら何のためらいもなく捨てられる人形のように扱う方がサマになる」・・・。
これがSKiを仕切っている、ごく一部の「ファンさん」の根本的な考え方なのであろうか。
賢いだめなひとたちは、それがCOOLだと感じているのだろうか。
私は、こんなCOOLな連中と同一視されるのはごめん被りたい。
これは以前にKS3で書いたことであるが、もう一度書くことにする。
アイドル本人とそのファンの間には、「お互いの関係を維持していくために生じていく矛盾点を、共に許し合っていく、暗黙の了解」と「暗黙の了解を受けあう愛情」というものがある。
ところが、この「愛情」と言うモノが欠落していても「制服向上委員会」に限っては、ファンはつとまるのだ。むしろ、送り手側がそれをあおっている気さえする。
とにかく何でもいいから、商品を買ってくれりゃそれでいいと考えている主催者。
メンバーに対して「楽しく接してくれる」ということだけしか求めないファン。
それがすっかり当たり前のものだと思ってしまっているメンバー。
このように、「アイドルとファンとの暗黙の了解」が、ファンと、メンバー、そして主催側の3点において、悪い部分でギブ&テイクがバランスされてしまっていること。
これがアイドルとしての「制服向上委員会」最大の不幸だと私は思う。
私が長い間「アイドル・ファン」として培ってきた、「心の中のものさし」で「制服向上委員会」を計るのは、もはや根本的に間違いなのであろう。
「制服向上委員会」を楽しむためには、今や従来のアイドル世界とは似て非なる、別の価値観を構築する事を強いられるのだ。それはとてつもなくキツイことなのだ。
だから、いわゆる“薄い客”がみんな去ってしまったのであろう。
ほとんどのアイドルファンは、アイドルを見るためだけに生きている訳ではないのだから。
濃いファンさんの間でよく聞かれるセリフ。
「制服向上委員会の現状を否定する事によって、オレ達の居場所がなくなる」。
私は、現状を否定するくらいでなくなるような居場所ならば、とっととなくなってしまえと思っている。
これからも私は、バカなアイドルファンとして「制服向上委員会」が好きと言う気持ちを持ち続ける限り、今までのようにアイドルとして、メンバー達の姿を見ていきたいと思っている。
血の通った人間を人形のように扱うくらいならば、とっととアイドル・ファンをやめてしまう方がまだマシだ。
たとえそれが将来間違いだったと気付いたとしても。
決して後悔だけはしたくない。
(BW)
☆ライブ・アイドルの未来
将来、ライブ・アイドルは、皆「佐倉せいら」化していくのであろうか。と私は最近思う。
「歌うアイドル」も「魅せるアイドル」も十分に出てきている現在、アイドル不在の穴を埋めるような意味合いを持っていた「ライブ・アイドル」の存在価値はもはやなくなりつつある。
だとすると、鈴木あみやモーニング娘。には歌えない、現在では一般ウケし得ないセンスの楽曲を歌っていく。端的に言うと、水野あおいのような超・フリフリ路線の楽曲などで、ニッチ(すき間)市場を狙うという手になるのであるが、その面でもアドバンスを得ることは、非常に困難なことだと思う。
何故なら、それなりに魅力的な楽曲を作り、ましてそれをCDリリースするとなると、えらく資金がかかるからなのだ。(そういった意味で、PANTAや佐々木忠平など、幾人ものミュージック・メーカーを抱えているPTAコミティは、ライブ・アイドルの送り手として相当有利な立場にあるのだ。しかし、それが作品になかなか生かされないのは、一体どういう訳なのだろうか)。
「チェキッ娘」のたった一年間の活動のために、それなりにツブが揃った何十もの楽曲が作られ、CDがリリースされるという現実を目の当たりにすると、この点でもアドバンスをとっていくのは、とても難しい事だと私は思う。
そうとなると、メジャーなアイドルには決して出来ない「手の届く偶像恋愛の対象」としての存在となるしか、もはやライブ・アイドルの生き残っていく道は残されていないのであろうか。と私はつくづく思うのだ。
これについて送り手側は、誰もまだ明確な回答を出してはいない。
そして受け手側のほとんどは、そういった願望を大なり小なり抱いているという事実を、否定することは出来ない。
それは、率直に言ってあまりにも哀しい現実だと思う。
この事について、皆さんからの意見を聞きたい。
(BW)
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