このシリーズ第1回目を読む
「今、エヴァにハマっています…」。
井出百合子(もと:望月菜々)のこの一言から始まった、アニメ〈新世紀エヴァンゲリオン〉の読解もこれで3回目。いよいよ補完の最終段階を迎える。
ストーリーの中でたびたび登場する【人類補完計画】は多分に謎が多く、テレビシリーズでは事実上未完結のままに終わり、完結編として制作された映画版においても、その全貌はつかみがたい。
それでは、この複雑に入り組んだ物語を、比較神話学の見地から検証することにしましょう。
最初に、フランスの詩人・クレティアン・ド・トロワの書いた、アーサー王と円卓の騎士の物語の一つ〈聖杯物語〉を聞いてもらうとしよう。
主人公・パルシファルは、母親と二人で森の中に暮らしていた。彼は、森から外へ出たことがないので世の中のことは何も知らず、母親は自分のことを“美しい息子”と呼んでいたので、本当の名前すら知らない、純粋だけれど世間知らずな少年であった。
ある日彼は、森をたまたま通り掛かったアーサー王の騎士たちと出会い、自分も騎士になることを夢見て人里へと赴き、ゴルネマントという領主のところで騎士の位を授かる。
騎士になった彼が川に差し掛かると、二人の男が小舟に乗って釣りをしているのを見付けた。話をすると、「この先、何マイルと橋はないから、今夜は私たちの城に泊まっていきなさい」と招待された。
漁師は膝をケガしていたので担架に乗せられて城へ帰ると、彼を客間へと案内した。漁師は一振りのすばらしい剣を取り出してくると、「これはあなたに与えられるべき運命にある剣です」と言い、彼に手渡した。
すると突然、矛先から血の滴り落ちる長槍を持った若者が、彼の横を通り抜けていった。自分の手に降ってきた一滴の血を見て、「あいつは一体何者なのか? なぜ血の付いた槍を持っているのか? なぜ槍は血を流しているのか?」と、次々に疑問がわいてきた。しかし、母親から「余りしゃべってはいけない」と教育されていたので、そのまま黙っていることにした。
今度は、美しい宝石がはめ込まれた“黄金に輝く大杯”を持った少女が通り過ぎていった。彼はそれにものすごく興味を持ち、彼女に話し掛けたくてウズウズしていたが、さっきと同じ理由で我慢していた。夕食の時にも、新しい料理が運ばれていく度に、黄金に輝く聖杯が行き来していたが、それでも彼は礼儀正しく黙っていた。
翌朝、パルシファルが目を覚ますと、人の気配は全くなかった。他の部屋には鍵が掛けられており、異変に気付いた彼は馬に飛び乗り外へと向かった。しばらく進むと、一人の少女が生首を抱えたまま泣いていた。
少女いわく「昨日あなたが泊まった城は、戦いで両膝をケガした漁夫王の城であります。漁夫王は歩くことができないので、釣りをすることが唯一の楽しみなのです。ところであなたは、槍が血を流す訳を尋ねましたか? 聖杯がどこへ運ばれるのかを尋ねましたか? もしそれを尋ねていなかったとしたら、とてもまずいことになってしまいました」。
ようやくここで彼に名前を尋ねるが、その時彼は突然に自分の名前を思い出す。
「(自分は)パルシファルだ」と言うと、少女は「あなたは『不運のパルシファル』と呼ばれるべき人です」と答え、「もしあなたが、血を流す槍と聖杯についての正しい質問をしていれば、漁夫王の傷は直ちに癒され、大いなる幸福が訪れていたはずです。しかしあなたは、目の前の聖杯を取り逃がしてしまい、逆に漁夫王を苦しめ不幸を招き寄せてしまった。しかも、肝心なところで質問をしなかった。だから、昨日漁夫王から与えられた剣も、戦いの一番大切な時にあなたを裏切って折れてしまい、きっとあなたを危険な目に遭わせることでしょう」と言った。
この〈聖杯物語〉も、作者のトロワが執筆途中で他界したために、惜しくも未完結となってしまった。
聖杯が一体何なのかは、トロワの聖杯物語では明らかにされていないが、後に他の作家が書いた聖杯の物語では、それはキリスト処刑の時に流れた血を受けたコップと結びつき、槍は同じく処刑に使われたロンギヌスの槍としている。
また、全く別の見方として、ケルト神話にはよく食べ物を無限に生み出す「魔法の釜」というのが出てくる。例えば、勇気のある者のためには何千人分ものスープを煮ることができるが、臆病者のためには一杯のお粥(かゆ)も煮ることができない大釜を、アーサー王とその騎士たちが海底から引き揚げる話がある。
また、ケルトの父神・ダーザの持っている大釜は食べ物が無限にあふれだし、死者をその中に放りこむとたちまち生き返るという魔法の釜である。こうした魔法の釜をモデルに、トロワは聖杯を考えだしたというのが、一般的な聖杯研究家たちの見方である。
この「食べ物を無限に生み出す」という特徴は、古い地母神信仰に由来しているものだろう。こうした信仰では、壷や瓶などが崇拝の対象とされることがよくあり、ギリシャなどでは壷に手足を付けた女神像まで出土している。
そうすると、この聖杯物語と〈新世紀エヴァンゲリオン〉のストーリーは、本質的に同じ構図をしていることに気が付く。まず象徴的な槍の一撃で負った深い傷を、聖杯やリリスという地母神の生命を産み出す力によって回復させようとする。そしてそれは、犠牲となって十字架に掛けられ、世界を救済したキリストと結び付けられた。
他に注目すべきは、両作品ともに「内面的な戦い」がテーマとなっていることだ。それまでの騎士の物語は、邪悪な心を持った騎士や魔法使い、あるいは巨大なドラゴンといった「対外的な敵との戦い」を描いたものだった。
しかし、騎士道精神を重んじる作者は、質問という“ポイント”を作ることで自分自身との内面的な戦いへと移行させている。エヴァンゲリオンも、すべての使徒(しと)を※1殲滅(せんめつ)した時に補完は始まり、敵との戦いから自分の戦いへと移行する。また、“質問”はエヴァの中でも繰り返し登場する。聖杯物語では、パルシファルがしなければいけない質問をしなかったことで失敗したが、エヴァでは質問をしなかったことに加え、質問に答えなかったことでも失敗している。
だが、双方に共通しているのは、「正しい質問に対して正しい答えが与えられたときに、傷は癒される」ということである。その点からいえば、未完結とされたテレビ版エヴァではシンジが自分の手で答えを見付け出しているのに対し、完結編でもある映画版ではあいまいで不完全な答えしか見付け出していない。
この二人の主人公・パルシファルと碇シンジは、いずれも手を伸ばせば届くところにある“宝”を取り逃がしている。パルシファルは森で生まれ育ち、清く純粋な心の持ち主であった。しかし、騎士は余りおしゃべりではいけないという戒律を気にしすぎたので彼本来の純粋さは失われ、傷付いた漁夫王への思いやりを忘れてしまった。そのために、パルシファルは目の前の聖杯を取り逃がしてしまう。シンジもまた、父親のゲンドウや綾波レイたちと話をしたいと思っているのに、相手の反応を気にしすぎるがために気軽に声を掛けることもできず、孤独を味わうことになる。
アーサー王関連の著作を多数出版しているイギリスのリチャード・キャベンディッシュは、この聖杯とそれに対する質問の背後にあるテーマは、キリスト教の中心的な教えであると指摘している。つまり、「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん。門を叩け、さらば開かれん」。
それはそのままエヴァンゲリオンにも当てはまり、象徴的なシンジの言葉「父さんは僕のことを分かってくれないんだ」と、それに対するレイの言葉「あなたは、お父さんのことを理解しようとしたの?」の中で暗示的に示されている。
補完の中でシンジは、この世界はシンジ自身が望んだ世界であると告げられる。パルシファルが、質問をしなかったために聖杯を取り逃がしたのと同様、シンジが父親から理解を得られなかったのは、シンジ自身がそんな父親を遠ざけていたから、自分から父親に接しようとしなかったからなのである。
「♪ カーテン開いて あなたの窓は
何が見えるのか 少し楽しみだわ…」
これは、SKiの一期生・望月菜々=写真=の作詞した曲『Tea Time』の一節である。彼女は95年2月にSKiを卒業しているが、当時のコメントを振り返ると、そこに書かれている内容とエヴァンゲリオンや聖杯物語のテーマとが全く同じことであることに気付く。
「途中、いろいろな人とのぶつかり合いで人を信じることができなくなって、大切な自分が壊れそうになった時もありました。でも、たとえどんなことがあっても、みんな本当はとても良い人だということが、今ではよく分かります。
みんなそれぞれ自分とは違うから、最初は相手の行動や言葉に戸惑ってしまうこともあるけれど、大切なのは批判することじゃなく、まず理解し、気持ちを分かってあげることだと私は思います。そうすれば、自然と相手の良いところが見えてきて、その人を好きになれるのです。だから私は、みんなを大好きになることができました」。
よろしい、正にそのとおりだ。
聖杯物語の書かれた中世ヨーロッパの「アモール」「クアトロ」と呼ばれる宮廷風の恋愛には、ある一定のルールがあった。まず若い騎士たちは、宮廷の中から一人、自分が仕えたい女性を選びます。女性はその騎士に対していろいろと難しい注文を出し、相手が自分のことを本当に愛してくれるのかを試すのです。
当時の宮廷では、強引に力ずくで女性を自分のものにしようという男は「野蛮人」として軽べつされ、また自分に仕えてくれる騎士たちに自分勝手なわがままばかり言って、騎士たちを困らせる女性も野蛮な女性とされました。男は、自分の意志で相手の女性を選べる代わりに、一度仕えることを決めたら相手の願いを聞き入れなければならない。女は、相手を選ぶことができない代わりに、最終的にその恋愛の行方を決定することができるのです。
自分を押し付けるだけでは駄目。かといって、相手の顔色をうかがっているだけでも駄目。自分から相手を求め、同時に相手を受け入れることができなければ、アモールと呼ばれる「精神的な恋愛」は成立しないのである。当時のヨーロッパでは、そのような時の心理状態こそが最高の精神だと考えられていました。
望月菜々はきっと、そうしたことを分かっていたのだろう。同じく本人作詞の『恋は雪のよう』には、恋人たちの別れの情景が描かれている。かつての、魔法に掛かったかのような情熱は冷めてしまい、二人の心はだんだん離れていってしまう。このままでは、互いに縛り合ってしまうだけだから、ここで二人はある“決断”をする。
「♪ やさしく私を抱き寄せ あなたは終わりを見つける
だから私も決めたの 笑顔でサヨナラ」
それはエヴァのストーリーで、「ヤマアラシのジレンマ」と呼ばれているものである。
体中トゲで覆われているヤマアラシは、相手と別れようとすると、体のトゲで傷つけ合ってしまう。しかし、彼女は『Tea Time』の歌詞の2番で、「恋すれば 胸痛むけど/キズ位 ちゃんと癒せるわ」と歌っている。そこには、キリスト教のもう一つの教え「汝(なんじ)の敵を愛せ」が見える。エヴァはそれを、心の傷にスポットライトを当て、望月菜々は傷を癒す愛について歌っている。これらは全く別物のように思えるかもしれないが、実は同じものなのだ。
彼女はそのことをSKiで学んだ。「愛と勇気と思いやり」の精神を胸に、今では[井出百合子]の名前で芸能活動を続けているが、その彼女が「今、エヴァにハマっています」というのは、少しも不思議なことではないだろう。
# このシリーズ(新世紀エヴァンゲリオンの読解)三部作は、今回で終了します。
[文:群馬県/知恵之輪士]
[カメラ:論説委員■ゆめのしずく]
※1 殲滅(せんめつ) = 皆殺しにして、滅ぼすこと。
【お詫びと訂正】
前号(97年11月号)の本コーナーにおきまして、連載回数の表示を「【第十話】」としましたが、アニメ〈新世紀エヴァンゲリオン〉の表記に倣い「【第拾話】」と訂正させていただきます。
KS3編集部
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[ 98年1月号目次 ]