last update:98/03/19
sweet days...

菊地 彩子   Ayako Kikuchi


《菊地彩子さんの話》

 菊地彩子さんへの卒業メッセージを書くその前に、いささか心苦しい点もあるのだが、この半年間にあった出来事を書いておこうと思う。

 まずは、昨年8月10日の電話でデートで、私が彩子さんとしゃべった時のこと。
 そのやりとりは、今でも私の心に残っている。
菊地彩子  一見、何の変哲もない会話である。だが電話を切った後に、長年のアイドル・ファンの経験から来る、一抹の不安が私の胸をよぎった…。
 それからおよそ一週間後、吉成圭子・引退コンサートのアンコールで出てきた彼女は、髪を切っていた。脳天気なことに私は、「おおーっ、彩子の奴、髪切って女っぽさが増したじゃないの。うーっ、吉成さん見なくちゃいけないのに、彩子の方に目が行ってしまう〜」などと思っていたのである。
 翌日、ワン・ラブ・プリーチャーズコンサートが終わってから、だめなひと通り(c)にあるサンクスへ行き、遅い昼食の弁当を買い終えて店を出てきた時、店の前で雑談していたベテランらしきだめなひとたちのこんな言葉が、私の耳に飛び込んできた。
 私は内心、「この野郎!」と思った。だが、彼らの言っていることはまんざらウソではなかったのである。まるで水野あおいにでもデザインしてもらったかのような(?)フリフリなドレスは、橋本・斉藤ならともかく、この日の菊地彩子には全くといっていいほど似合っていなかった。
 現在のSKiを支持する人間の大半は「素人の女の子っぽさ」を重視する客であり、渋谷や新宿に行けばいくらでも歩いている「ちょっと色っぽいタイプ」には食指を伸ばさない客層なのである。

 そうなのだ。あのヘアースタイルのイメチェン。そして、どう見てもファンさんの好みと逆行したかのような装いぶりは、今思えば「彼女が一線を引く決意の現れ」であったのだ。
 こいつにすぐに気がつかなかったうかつさ、そして鈍感さを私は今でも悔やんでいる。

 そしてその夜、私は地獄を見た。先週の悪い予感を裏づけるかのように、菊地彩子が真夏の祭典でメイン・ヴォーカルを取ることは、ついに最後までなかったのである…。
 その夜、渋谷の〈天狗〉店内で愚痴をこぼしまくり、あげくの果てに渋谷駅前でブチ切れたのは本誌97年9月号に書いたとおりだ。飲み会に同席した編集長・スタッフや読者たちに、どこにもぶつけようもない、何とも表現できない「やるせない感情」をぶつけるしか、私の感情の居場所はなかったのである。
 それからが大変であった。10月11日の静岡朝日テレビのイベント出演はドタキャンで井上裕紀子さんになり、またもや愚痴る私を会場に来ていた読者の杉浦さんが慰めてくれた。
 10月26日のアコースティック・ライブ{下北沢}では、「(出演が)ドタキャンにならないか」と会場に着く瞬間まで心配し、当日無事に出演していたのを見た時にはホッと胸をなで下ろした(ただしこのライブで一番良かったと思ったのは、前座として出てきた川野朋美の成長ぶりであった…)
 このように、心中穏やかでない日々が続いた。「きっと、みーつー[松本美雪]一推しだった人は、去年の今頃このような心境だったろうなぁ…」なんて軽口をたたき、私は心の中の動揺をごまかそうとしていた。
 そんな心境の中、私はある一つの決心をした。「どのようなことになろうと、菊地彩子がステージに立っているその間は、絶対に一推しでいよう!」と。

 年が明け、普段からダラケ気味に生きている私にしては珍しく気合いを入れて《ごあいさつ'98》に参加した。なぜなら、菊地彩子の写真を撮れる機会は恐らくこれで最後と踏んだからである。「昨年の広川瑛子のように、ドタキャンになったら最悪だなぁ」と思っていたが、それは杞憂に終わった。
 B-1では、彼女は宮田直美さん・麻井玲那さんとともに、セーラー・カラーのついたグレーの制服で登場した。
 率直に言って、もっといい色の制服で出てきてほしかった。とはいえ、握手の時に「お久しぶりです」と声をかけられ、そして…
 普段は、どちらかといえば素っ気ない感じで「ありがとうございます」と言う彼女であったが、あの時のまるでとろけそうな、うれしそうな表情は紛れもなく本物であった。
 2時間後、B-2での質問コーナーで、宮田直美さんにこんな質問をした人がいた。
 「直美ちゃんは、自分を“いたいけ系”だとおもいますか? それとも“イケイケ系”だと思いますか?」。
 質問の意味が今一つ飲み込めない直美さんに対して、彼はこう続けたのである。
 「“いたいけ系”というのは片桐陵子ちゃんみたいな娘のことで、“イケイケ系”というのは菊地彩子ちゃんみたいな娘のことですよ」。もちろん場内は大爆笑。私も一緒になって笑ったが、とても心からは笑えなかった。
 日が変わり、C-1のSKi-P。
 「体操服」と呼ばれるいつもの衣装だ。もっと何とかならなかったのかよと内心舌打ち。
 しかし髪を束ね、うなじを見せた彼女からは、18歳とは思えないぞくぞくっとするような“色気”を感じさせた。そいつをまざまざと見せられてしまうと、衣装のセンスがどうこうという些細なことはどうでもいいように思えてきた。

 そして、いよいよラストのC-4。
 シャープなシルエットが特徴のワインレッドのブレザー。静岡イベントで着ていた衣装だ。
 「これだよ! このようなデザインでこそ、菊地彩子の魅力が十二分に出てくるんだよ」。
 愛機α-707siを持つ手にも力が入る。思い残すことなく、このステージを楽しもう…。

 歌がはじまる。松田ゆかりさんのヴォーカルによる『同級生』だ。小林久子さんと手をつなぎ、くるりとターン。
 その長身が舞う姿は、もう幾度となく見てきたが、やっぱりいい。しかし、あと何回見ることができるだろうかと考えると気が重くなる。
 その瞬間、彼女が私にフッと目線を送ったのだ。ちょっとした、いたずら心なのだろう。しかしそれは、「余計なことを考えず、今のうちにあたしの姿をしっかりと見ておきなさいよ」という、無言のうちの叱咤とも取れた。
 そして撮影タイム。ファインダー越しに彼女の表情を一つ一つ捕えていく。
 彼女は変わった。一年半前に名古屋駅前のHMVで初めて彼女に出会った時に持っていたあどけなさは消え、しっかりとした美しいオトナの女性の表情を作っていた。
 シャッターを切りながら、「彼女はモデルとして必ずやっていける」と思った…。
 最後のツーショット・ポラの撮影時、自分は何を言ったのか、そして彼女はどのような言葉を返したのか、全く覚えていない。恐らく、ありがとうという意味のことを言ったと思うが。

 終わった…。出口で知り合いの人たちに帰りのあいさつをしてから東京駅へと向かうが、帰りの新幹線に乗り込んだ途端、空いている三人掛けの座席に倒れ込んでしまった。まるで敵兵を思う存分斬り倒した後に、精魂尽き果て野に倒れる兵士の様な心境であった。
 もう何も考えたくなかった。考えたら訳が分からなくなってしまいそうだったから。考えたら悲しくなってしまうだけだから…。
 耳にしたMDのヘッドホンからは、『ウエディング・ベル』がリピート再生で流れていた…。

 そうしたいきさつを経て、1月19日に菊地彩子卒業の知らせを受けた。
 「自分は覚悟しとったけど、他の(卒業)メンバーを推していた人はつらいだろうな…」。これがその瞬間、私が感じたことである。
 私は、基本的に神の存在というものを信じていない。しかし、私が10年近くも足を突っ込んでいるアイドルの世界には、神というか、何らかの逆らうことのできない流れというのか「運命」みたいなものが存在すると思っている。
 私が制服向上委員会というアイドル・グループと出会ってから、4年以上の時を過ごした。その中で、アイドル・ファンという生き方を左右させる「運命」という奴に、菊地彩子という名の歴代メンバー中、最も魅力的で美しい女(ひと)に出会わせてくれたことを、私は心から感謝したい。

  「悲しい時は泣いたほうがいいです。
     でも、男は女の前では泣かないんです。一人泣きがカッコイイんです。」

〈ORENGE IDOL 10号〉46ページより

 何という※1●酒脱(しゃだつ)なセリフなんだろう。どこかの小説から引っ張ってきた言葉なのか。それとも、自らの実体験から来た言葉なのか。勝手に想像するに、おそらく後者だと思う。
 こんな言葉を、インタビューの中でサラリと言ってのけるセンスを持った彼女が、私は好きであった。
 アイドルというのは、素人っぽさを持ちえたプロの芸能人であり、プロであるからには、他の誰にも持ちえない魅力を何か一つは持っているのが当然なのである。
 「美少女の格好よさ・凛々しさ」を、そして「酒脱さ」というものをSKiに対して求めていた私。そして、それを歴代メンバー中、最も大きな魅力として持ちえていたメンバーであった菊地彩子…。

 しかし、悲しいかな、現在のアイドル・ファン。特にライブ・アイドルのファンたちにとっては、そんなものはどうでも良くなってしまったのだ。
 いつも来てくれるファンに対して、いかにして優しく楽しく接してくれるかによって、その価値が決まってしまうライブ・アイドルの価値と、まるで使い捨ての人形のように、次から次へと取っ換え引っ換えして、欠けてしまった心を補完していかなくては生きてはいけないアイドルファンの世界。私が、ピュアな気持ちでアイドルに接し・楽しみ、そして愛してきた時代から、今では何もかもすっかり変わっちまった。
 そんな現在でも、私はアイドルに対して夢を信じ、そして楽しんでいる。
 おそらくこれからも、私はこの世界で生きていくのだろう。

 菊地彩子、いゃ(本名である)菊地智子という女性は、もうそんなつまらない価値観の世界にいるべきではない。
 ステージの上で歌い踊る菊地彩子の姿を、私はもっと見ていたかった。しかし彼女には、こまばの舞台なんかよりもずっと似合う場所がある。本当に菊地彩子のファンであるのならば、制服のスカーフなんかで彼女の心を縛りつけてはいけない。だから私は、胸を張り、笑顔で彼女を見送ろうと思う。

 「いつまでもいい女でいてくれ。そして、いつかまた別の形でお会いしましょう」。
 これが菊地彩子さんへと伝える、最後のメッセージです。

 「悲しい時は泣いたほうがいいです。でも、男は女の前では泣かないんです。一人泣きがカッコイイんです」。
 この言葉、私は一生忘れない…。

# 文中、一部敬称略で書かせていただきました。
[文とカメラ:大阪府/Be-Wave]

※1 酒脱(しゃだつ) = 「あか抜けた」という意味

参考資料:〈ORANGE IDOL 10号〉(法政大学歌謡曲研究会発行)より



《彩子ちゃんの励まし》

 彩子ちゃんとの思い出はいろいろあるけれど、一つは1996年5月12日に新宿のミラノボウルで行われたFCイベントのボウリング大会。
 それが終わってからのお茶会で、こんな会話をしました。
 当日の模様は、本誌7号に書いてあるのでそちらを読んでほしいのだが、この半年後、ちょうど和歌山で《紀の国・年金まつり'96》(11月16日)のゲストに本田博子ちゃん・彩子ちゃん・橋本美香ちゃんの3人が来るという前日になって、僕は会社をクビになってしまった。3人の姿を見れたのはいいが、ちょっと憂うつな気分だった。

 そんなこんなで年が明け、《謹賀の宴'97》の初日(1月4日)。Hellowの回でツーショット・ポラ撮影の時に、彩子ちゃんにそのことを話した。「早く就職できるといいですね…」と励ましてもらったものの、なお職にありつくことができなかった。
 「今度は新撰組の衣装を着て、寿隊のキャンペーンに来たいですね」とMCで話していた、4月6日あべのHMVでのIJRキャンペーンの時も、
と、ツッコまれてしまったので、「ごめんなさい…」と謝るほかなかった(無念)。

 ようやく新しい職も決まり、山中湖ツァーに行った夜のこと。
 廊下から「ごめんくださーい!」と声がするので僕がドアを開けると、顔を見て「就職できましたか?」と聞いてきた。
 「(少し照れながら)えぇ、だからここにいるんですよ」って答えたら、満面の笑顔で「よかったよかった。は〜い、お夜食です」と温かいカップラーメンを差し入れてくれた。もちろん、うまかったのは言うまでもない。
 翌朝、食事の時間に彩子ちゃんが冷水ポットを持って回ってきた。水を注いでくれたのはいいけれど、少し横を向いているすきに表面張力で水が盛り上がるくらいに入れていくので、「ひょっとして、いたずらされているのかな?」と思ったりもしましたが。
 帰る間際の握手会で「夜食(のラーメン)、どうもありがとうございました」とお礼を言うと、「おいしかったですか。コンサート、また見に来てくださいね」と握手をして別れた。

 何度かコンサートに行った後、今年の1月19日に例のハガキが届き、その日は食事もノドを通らないほど悲しかったです。

 彩子ちゃん、おつかれさまでした。三期生のトップでSKiに入ってきて、4人1組やSKi-Pなど様々なユニットに入り、イベントやテレビ出演などで頑張っていた姿を、僕は忘れません。
 また、会いましょう。 Want You!
[文:編集長■みのる]



《彩子さんは良かった!!》

 1998年2月22日、菊地彩子ちゃんがSKiを卒業することになりました。
 あらかじめ「覚悟」はしていたものの、私もかなりショックを受けました。でも、それ以上にショックを受けていたのは、私のせいで昨年からSKiファンになってしまった友人のW君である。
 ここでは、その彼のことを中心に彩子ちゃんとの思い出をつづっていきたいと思います。

 昨年の4月6日、大阪でIJRのキャンペーンが行われるのを知り、彼を誘って車で阿倍野(天王寺)の近鉄百貨店へ行きました。{97年8月号参照
 イベント終了後の握手会でのこと。私の前にいた彼に、握手の順番が回ってきた。
菊地彩子  私もSKiをはじめ、いろんなコンサートやイベントに行ったが、アイドルに向かって開口一番こんなことを言うファンは彼が最初で最後だろう。…多分。
 彼に感想を求めると「彩子さんは良かった!!」の連発で、京都に着くまでその調子なものだから、私はとても驚いてしまった。
 なぜなら、彼にはSKiというグループの話はよくしていたが、メンバー個人のことはほとんど話したことがなかったからである。しかも、彼の性格からして「本田博子ちゃんにハマるだろう」と思っていたのに…。

 そこで、7月21日の浜松キャンペーンにもW君を誘い、車を飛ばして浜松へと向かった。
 ここでは大阪の時とは違い、メンバーと話す時間は余りなかったが、駅前のフォルテホールで歌い踊り、そして握手会での彩子ちゃんのかわいさは全く変わっておらず、むしろ「綺麗」といった方がいいかもしれない。
 彼は相変わらず視点が彩子ちゃんの方ばかり向いていたので、あえて話しかけなかった。帰りの車中でもSKiのCDをかけながら、“充実した一日”について京都までずっと話し込んでいたのを覚えている。

 12月13日、W君が電話でデートをしたのですが、終わってから「すごく良かった。今でも覚えていてくれた!」とうれしそうに感想を話してくれた。
 しかしこの辺りから、「もしかすると、2月で彩子ちゃんは卒業するのでは…」という予感がしてきたのである。もちろん、そんな予感など外れてほしかったのは言うまでもない。
 そこで、私と彼の二人で、ある計画を立てた。
 ご存じのとおり、彩子ちゃんの誕生日は1月5日である。つまり、「誕生日にプレゼントを贈ろう!」という計画なのだ。簡単なことではあるが、一推しにすら贈ったことのない私がこのような行動に出たということは、「本当は、彩子ちゃんが一推しだったのだろうか?」と思えるほどでもあった。
 代金は二人で折半。私が買いに行き、同封する手紙は彼が書くことにし、年明けに上京する私が彩子ちゃんに手渡すことで話はまとまった。

 年も明けて、1月4日の新ごあいさつ'98。
 新年から会えたうれしさと安心感で、気が付くと彩子ちゃんばかり撮っていた。どうやら、私まで彩子ちゃんに魅了されていたようである。その時にはまだ、「彩子ちゃんが卒  そして次の週、11日の新ごあいさつ'98(第2日)で、予定どおり彩子ちゃんにプレゼントを渡したわけだが…。
 彼女の笑顔で、喜んでくれてよかったと思うと同時に、「なぜもっと早く行動を起こさなかったのだろう…」と、自分と友人の行動の遅さを実感した。

 それからしばらくしたある日、家に帰ると一枚のハガキが届いていて、そこには彩子ちゃんの名前も書いてあった。
 早速、友人の携帯へ電話すると彼の家にも届いていたそうで、「そうか…」と一言で切れてしまった。しかも、友人が書いた手紙の返事と同じ日に届いたのである。さぞかし複雑な気持ちだろう。
 月末にP会報が届いたときには、彼女が入ってきてから2年半の思い出が走馬灯のようによみがえってきて、非常につらい気持ちになったが、事実は事実として受け止めるほかなかった。
 しかし今、私たちSKiファンに課せられた使命とは「最後まで応援する」。この一言に尽きるのではないでしょうか。

 彩子ちゃん、2年半も私たちSKiファンを楽しませてくれてありがとうございました。これからは世界へと羽ばたけるよう、陰ながら応援していきます。
 そして、夢である女優になった時には、その成長ぶりを私たちの前に見せてくださいね。

[文:京都府/竹ちゃん]

[カメラ:東京都/柳本直樹]

  ※1 彼は、ほんの少しだけ老け顔だったりする(^^;。



《彩子ちゃん、ごめんなさい…》

 1995年7月7日の《菜々ちゃんの日》公演のステージ。菜々ちゃんの横に、見慣れない背の高い女の子がいた。
 今思い出すと、それが彩子ちゃんだったんだね…。

 いろんなイベントに行きましたけど、そこにはいつも彩子ちゃんがいました。時には「○○ちゃんの代役」なんて、ありがたくないのもありましたが(泣)。
 でも縁はちゃんとあったみたいで、97年の2回のツアーの夜食はいずれも彩子ちゃんからもらうことになってたんです(精進の旅の時は部屋にいなくてもらえませんでした。彩子ちゃんごめんなさい)
 あと、寿隊の隊長でもありましたね。正直、菜々ちゃん・千秋ちゃん時代のイメージが強すぎたので見るのがしんどかったのですが、それはわれわれの見方が悪かったのであって、彩子ちゃんやゆっきぃたちの責任ではなかったと思います。彩子隊長は一生懸命やっていたと思います。

 思い出というと、96年7月20日の名古屋のイベントかなぁ。最後のHMV生活創庫店で博子ちゃんにサインした後に、「(模型の)展示会、頑張ってください」って声を掛けてもらったのを覚えてます。写真撮ってたのも、ずっと彩子ちゃんだったし(笑)。
 それと97年11月の「精進の旅」の時、普段は撮ることが少なかった彩子ちゃんをかなり撮っていました。卒業することを予期していたのかな…。

 「学業専念」とのことで、短大へ行って何をしようとしているのかは定かではありませんが頑張ってください。
 私の心のどこかに、彩子ちゃんはいると思います。

[東京都/ホーカー・テンペスト]



●菊地彩子ちゃんへのメッセージ

 「ひょっとしたら、将来リーダーになるメンバーじゃないか?」と思っていただけに、とても残念だ。なみちょん[諸岡なみ子]が卒業した後、モデル系のスタイルのメンバーといったら、もう彼女しかいなかった。制服姿もさることながら、寿隊の新選組スタイルもよかったし、子供の日にやったスチュアーデスなんかは本当によく似合っていたと思う。
 彼女自身は背が高いことを気にしているようだけど、スタイルがいいっていうのは、やっぱり魅力的なことなんだから、プラスにこそなれマイナスになることはないと思うよ。

[論説委員■本間 寛]



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